破綻しそうな午後のこと

「トーマス……トーマス! おい、トミーはどこだ?」

ヒューイット家のうららかな秋の午後は、突如響き渡った大音声によって打ち破られた。
驚いた豚たちは一目散にキッチンから逃げ出してしまい、一人残された若い女はうんざりしたように顔をしかめる。

「トーマスならいませんよー」

尊大な態度で腰に手を当てて、玄関扉をふさぐように仁王立ちしている男は声の主に気づくと、「おお、エリノアじゃないか」と片手を挙げた。

「そんなところで何をしてるんだ? 暇なら水筒にコーヒーを入れてくれ。これからまたパトロールだ」
「はーい」

パトロールねえ。キッチンに引っ込んだエリノアは口の中で皮肉を呟き、それから今度は相手に聞こえるように続けた。

「トーマスはモンティおじさんの用事で出掛けてますー。もうすぐ帰ってくると思いますけど」
「なんだと? まったく肝心なときにいないんだからな、あいつは」

ホイト・ヒューイットのあかぎれだらけの手が、制服についた砂を雑に払い落とす。それからシャツの裾をスラックスの中に押し込むと獣のような唸り声を上げた。
彼はその後もぶつぶつと不平をこぼしていたが、熱いコーヒーが入った保温瓶が運ばれてくると理不尽な怒りも多少は和らいだようだった。

「実はさっき男を一人捕まえてな。これがまたヘドが出るような女々しい奴なんだが、まあ食っちまえばおんなじさ。そうだろ?」
「……その人うるさいですか?」

これ以上穏やかな午後を台なしにされなくはない。

「なかなか元気がいいぞ。今は外に吊してあるが。おっと、もう行かなきゃならん。トミーが帰ったら遊んでやるように言ってくれ。いいな?」

わかりましたと答え、つとめて愛想よく手を振ると、ホイト保安官は上機嫌で家を出ていった。
そしてようやく静かな時間が戻ったと安堵したのもつかの間、ダイニングの電話がけたたましく鳴り響き、彼女はあやうく飛び上がりそうになった。

「はっ、はい。……ああ、おばさん。エリノアです。何かありました?……あ、えっと、いま他の用事でいないので……帰ってきたら伝えましょうか? ええ、はい、わかりました。それじゃあ」

受話器を下ろし、やれやれとため息をつく。今度はヘンリエッタのトレーラーハウスまでお使いのご用命だってさ、トーマス。


陶器のポットの口から白い湯気が立ちのぼる。琥珀色の液体がティーカップの底で波打つと、綿菓子のような湯気はさらに大きく広がった。
キッチンいっぱいに甘い紅茶の香りが満ちる頃、エリノアは玄関扉が開く音を聞いた。
重量級の足音を響かせながら、ほんの少し冷たさを増した風と共に廊下を進む人物の正体はわざわざ確認するまでもない。

「おかえりー。キッチンにいるからちょっと来てー」

はたして呼びかけに応じてひょっこりと顔をだしたのは、多忙の人、トーマス・ブラウン・ヒューイットだった。

「おかえり。帰ったばかりで悪いんだけど、おばさんがヘンリエッタさんの家まで取りに行ってほしいものがあるんだって。行けばわかるからって言ってた。あー、それからホイトさんが裏に吊してある男を処理しとくようにって」

休む間もなく新たな雑事を言い付けられたにも関わらず、トーマスは嫌な顔ひとつすることなく頷いた。

「なんか手伝おうか? 解体以外で。いいの? そ、じゃあ」

いってらっしゃいと言いかけて、エリノアはふと口をつぐんだ。
不安げに視線をさ迷わせる男の方へ「ちょっと屈んで?」と腕を伸ばす。

「よーしよしよし、トミーは素直ないい子だねー、可愛い可愛い。いい子いい子!」

そうしてひとしきり黒い髪をぐしゃぐしゃに掻き回したあと、今度こそトーマスの背中をぽんと叩いて笑った。

「はい、それじゃ、いってらっしゃい!」


夕暮れ間近。長くこだましていた断末魔が消えたいま、茜色が差し込む地下室にはトーマスが肉切り包丁を振り下ろす単調な音だけが響いていた。
その地下室の隅っこで、錆びたスプリングが軋むマットレスに横たわった女が退屈そうに華奢なブレスレットをもてあそんでいる。

「ねー、トミー、まーだぁー?」

手首で輝くそれはトーマスからプレゼントされたものだが、もともとが誰の物だったのかエリノアは知らないし、また、知りたいとも思わなかった。
そうしながらも考えていたのはやはり愛すべき無口な殺人鬼のことだ。
——とびきり大きな子犬。
エリノアが彼に対して抱いているイメージはまさにそれだった。臆病で無垢で従順で、常に誰かの庇護を必要としている弱い生き物。
外見と内面が一致しないことは往々にしてあることだが、それにしたって彼のギャップは面白いとエリノアは常々感じていた。前に「トーマスは意外と可愛いよね」と零したら困ったように眉間に皺を寄せていたことを思い出す。
首輪でも付けたら似合いそう。赤がいいかな。それとも黒?
がちゃがちゃと包丁を片付ける気配によって、エリノアは短い物思いから戻った。ようやく肉の解体が終わったようだ。
トーマスはエプロンで両手を拭いながら急いで駆け寄ってくる。うつむきがちの視線で顔色をうかがうのは、待たせたことで怒られるとでも思っているのだろう。

「怒らないってばー。ほらおいでおいで……はい、お手は?」

不思議そうに瞬きをするトーマスの方へ右手を突き出したまま、子供のような笑みを浮かべた女が繰り返す。

「ほらほらトミー、お手だよー」

少なからず困惑した様子のトーマスがそろりと腕をのばし、無骨な手がエリノアの掌に重なった——と思った瞬間、彼女は大きくバランスを崩し、気がつけばぱちくりと天井を見つめていた。
そして、蜘蛛の巣の張った天井を背負っているのは大きな大きな子犬だ。
子犬。抗えぬほどの力で押し倒されのしかかられたエリノアはその表現を改めざるを得なかったが。
結局のところトーマス・ブラウン・ヒューイットは大人しいペットなどではなく一人の男であり、おそろしい巨躯の殺人鬼なのだ。

「あ、え……?」

埃まみれのマットレスに縫い留められた背中を冷や汗が伝う。エリノア は唐突に、そして強烈に自分が置かれている状況を意識した。
ここは閉ざされた世界だ。分厚い鉄扉は上階とこの部屋とを完全に分離しており、地下にはテレビのざわめきも鶏の羽ばたきも豚が歩き回る気配も、生活を感じさせる音は何一つ入ってはこられない。
聞こえるものといえば血の滴がぽたりと垂れる音や、旧式の足踏みミシンの隣に並んだこれまた古い卓上時計の秒針が正確なリズムを刻む音、そしてそれとは真逆に不規則に胸を打つ心臓の音だけだった。
黙ってこちらを見下ろしてくる男の瞳は口元を覆うマスクと同じように黒く、張り詰めた視線は一瞬たりとも揺らぐことはない。
数時間にも思える沈黙が流れたあと、マスクの顔がためらいがちに近づいた。もつれた黒髪の一束がぱさりと落ちて頬に触れてもくすぐったいと笑うことはおろか顔を背けることすら出来なかった。
睫毛の一本一本が数えられるほどの距離に男の存在を感じて両耳がかあっと熱くなる。きっと真っ赤になった顔も鼓動も筒抜けになっている……そう思うと彼女の心臓はますます狼狽して肋骨を突き破らんばかりに暴れるのだった。

「ふぁ、っ」

ふいにエリノアの首筋をざらついた舌が舐めた。手首を掴むささくれ立った指よりも、密着した脚よりも、もっともっと熱い。
ぬるりと濡れた感触にくり返しなぶられ熱を宿し始めた薄い皮膚を歯がかすめ、エリノアは思わず声を漏らした。

「あっ、やだ、やめ、て」

自分でもどうしようもないほど声が震えている。身を捩って逃げようとしてみたけれど、のしかかる厚い胸板はびくともしなかった。
とにかく逃げ出したい。けれどもそれは嫌悪からではなくて、ただただ怖いと感じたからだ。
この行為が怖いんじゃない。ましてや彼自身が怖いのでもない。ぞわりと背筋を駆け上がるものの正体に気づいてしまいそうな自分自身が、そしてそれを受け入れた瞬間に世界のすべてが変わってしまうことが恐ろしかったのだ。
もし、もう二度と戻れなかったら?
この狭い部屋が自分のすべてになってしまったら?
世界から永遠に引き離されてしまったら……
得体の知れない不安が、舐められた箇所から熱く広がっていくようだった。それを振り払うようにしてエリノアは肩をよじり、足をばたつかせ、拳を握りしめ、そして思いっきり空気を吸い込み——

「まっ……待て! あとお座り!」

気がつくとそう叫んでいた。
驚いたのは、トーマスが命令に従い体を離したことだった。
双方ともがぽかんとして視線を交わす。そして一瞬の沈黙を打ち破ったのはエリノアの大きな笑い声だった。

「とっ、トーマス……やっぱ犬……」

彼女はこらえきれない笑いを押し込めるように両手で顔を覆い、くっくっと声を震わせながら、きっと今頃トーマスはばつが悪そうに眉間に皺を寄せているのだろうと想像して更に笑った。

「あーもうダメ、おっかしい。涙出てきた」

しばらくして、エリノアの笑いの発作がようやく治まった。
濡れた目尻をぬぐってから大きく息を吐く。それから、しょぼくれて膝を抱えるトーマスの広い肩に両手をポンとのせた。

「ねえトミー。……まだもう少しだけ可愛い子犬でいてね」

いつか、心の準備ができるまで。

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