指が首筋を伝い上る。
「アリス」
顎の先に触れる親指と、頬を撫でる中指と。
「アリス」
リリの声を、人差し指がふさぐ。ささやき声にも似た、焦れったくて密やかで、そして回りくどい愛撫はまだ続いている。
密会。まさにそんな言葉がよく似合う、熟れた果実のような柔く潤んだ時間が二人の間にだけ滞っていた。
「アリス」
「もう少しだけ……」
「だめだよ、だって」
「お願い」
もう片方の腕が伸びてきて、リリの胸元にそっと張りついた。アリスがよく口にする“お願い”は、他のどんな言葉よりしぐさよりも効力がある。
「じゃあ、あと5秒だけ」
エンジンの止まった車内に、波の音がかすかに押し寄せてくる。その優しい音色は耳元をくすぐる吐息とよく似ていた。
今日はあいにくの空模様で、アリスの愛車の真っ赤なビートルは曇り加減の弱々しい日射しに包まれて、その存在をいつもより少しだけかすませている。
ここでこうして二人過ごすのは珍しいことじゃない。だけどアリスがここまですがってくることは、普段あまりない。
「もう戻らなきゃ」
とうとうリリはアリスの肩をそっと押し退けると、これで二度目になる別れの挨拶を切り出した。
寄りかかっていた体が離れていくと急な肌寒さを覚える。嫌でも視界に入ってくる、困ったような、悲しいような表情がよけいに温もりを恋しくさせるのかもしれない。
決して広くはない後部席には真正面からの視線をやり過ごす空間などありはせず、リリは相手に負けず劣らず困り果てた顔をしながらアリスの耳をそっとくすぐった。
「ごめんね。でも妹にお店任せてきちゃったし。あの子、午後から彼氏とデートとか言ってたから……そろそろ交代したげないと怒られちゃう」
「うん。わかってる」
いつもの気丈さを取り戻しつつあるアリスはうなずき、困らせてごめんと付け足した。
送っていくからと言う口調はてきぱきとして、名残惜しそうな態度を抑え込もうとの努力がうかがえる。
リリはアリスのそんなところが好きだった。三つ年上の人妻がやけに可愛らしく思えてしまう、別れ際のひとときも。
「アリスは優しいね。夜にまた……会える?」
鼻先を擦り寄せながらそう問えば、アリスの方も薄く開いた唇を寄せてきた。
唇が触れる。二度、三度と、軽くだけ。これ以上離れがたくならない長さだけ。
「お願い」
この言葉を、自分はアリスほど巧みには使いこなせない。だけど今はどうだっていい、答えは最初から決まりきっているのだから。
そんな自信と期待を込めて、リリは波音の合間にささやいた。