「ヴァニタぁー」
そう呼ばれた彼女が一瞬みせた表情を、私が見逃すはずなかった。
「なに自分の名前忘れてんの」
誰よそれみたいな顔したでしょ、とからかうと、本名よりもストレッチの愛称で知られているDJは肩をすくめて「違うわよ」と笑った。
「急にそっちで呼ぶからびっくりしただけ。もうすぐ終わるから待ってて」
「もうじゅーぶん待ってますよー」
ごちゃごちゃしたデスクの端に腰を下ろして、ストレッチの手の動きを追う。
一日の放送が終了したスタジオの中、彼女はもう30分以上もなんだかよくわからない書類と格闘していた。
「LGは?」
ラジオ局の技師兼アシスタントをしている大柄な男の姿はどこにもなかった。
「急用だとかで先に帰っちゃった。まったく、よりによってこんな忙しい日に!」
書類をめくる手を止めずにストレッチが答える。
ほう。彼にストレッチの側に居ることより優先すべき用事があったとは。LGが男勝りな美人DJに惚れているのは明白だった。
だが肝心のストレッチが彼をよい友人で仕事仲間としか見ていないのもまた明白で、残念ながらこの恋はうまくいきそうにないというのが私が出した結論だ。
ははは。可哀相なLG。今度飲みに連れてってやろう。
まあ、あれでなかなか一途な男だから、あっさり諦めたりはしないだろうけど……などと考えているうちに面倒な仕事も片付いたらしく、トントンと紙をまとめる音と共に大きな溜め息が聞こえた。
「終わった?」
「やっとね」ストレッチが時計を見上げる。「やだ、もうこんな時間!」
「どっかでご飯食べて行こうよ」
「そうね」
ようやくスタジオの埃っぽい空気から解放されて外に出ると、ひんやりとした新鮮な風が頬を撫でた。
錆の浮いた鉄階段の手すりも冷たくなっていて、もうそろそろテキサスにも冬がやってくるのだと知る。
「雪降るかなあ」
「望み薄じゃない?」
あちこちガタがきているジープの運転席に乗り込みながらストレッチが答える。彼女は更に続けた。
「物心ついてから、雪なんて一度も見てないわ。少なくともこの辺では」
「ほう、それはまたどえらい昔からだね……痛っ」
頭を小突かれた。
ひどいなあ、と実はさして痛まない頭をさすっていると、隣の席から妙に生き生きとした声が恐ろしい宣言を下した。
「よし、お腹減ったし飛ばすわよ! シートベルトは締めた?」
ひとたび運転席に座ると普段の何倍も男らしく豪快になるストレッチは凛々しい眉を持ち上げて、無言でこう問いかけた。
“さあ、覚悟はいい?”