それは、一仕事を終えたウルフが疲れた体に鞭打って帰路を急いでいた時のこと。
「ウルフ!」
ふいに背後で威勢のいい声が弾けた。
嫌というほど聞き慣れた声。男は傷だらけのマスクの下でわざとらしく溜め息をついて、振り向くのも煩わしいとばかりに前を向いたまま低く唸る。もちろん、歩みは止めぬままに。
「ウルフ!」
声が彼の名前を繰り返す。
これに負けて、男はどっと沸き上がってきた疲労を意識しつつ渋々足を止めた。
無視して歩き続けてもよかったが、それで諦めるような相手でないことは身に染みてわかっている。
こんな時、機嫌の悪さに任せて力づくで相手を追い返すという手段を講じることもたびたびあるが、今日の彼はとにかく疲れていて、自分と同等の力を持つ“小娘”とやり合う気にはなれなかったのだ。
いつだったか、あまりのしつこさに辟易して名前を教えてしまったことをこれほど後悔するはめになろうとは。
「貴様に割く時間はない」
相手を厳しく見据えたままウルフは刺々しく吐き捨てた。
ところが“小娘”ことチェットはと言えば、彼が思い通りになったことが嬉しいのだろう、身の丈以上もある尻尾をばたばた振り回すばかりでまるで堪える様子はない。
と、しばし勝ち誇るように胸を張っていたチェットが、ふいに口を開いた。
「結んで」
「は?」
「結んで」
——ふざけてるのか?
要領を得ない回答に、元来気の短いウルフは早くもいらいらと爪先を踏み鳴らしはじめた。
また、対するチェットにしても——ウルフほどではないにせよ——苛立ちを隠し切れない様子である。
家族であるゼノモーフ相手なら“考える”だけですべてを伝えられるのに、プレデター相手ではそうはいかない。彼女は自分の口から何かを説明することに関してあまりに不慣れだった。
「だから」と、一瞬立ち込めたぎこちない沈黙をチェットの声が打ち破る。「髪! 結んで!」
そう叫ぶ彼女の動きに合わせて触手のような“頭髪”がぱたぱた揺れた。ウルフのそれに似た、だが全く同じではない器官。
そこへ無意識に目をやりながら、ウルフはぼんやりと考えていた。こいつは明らかに自分達とは別種で、なのに確かに同胞の“におい”もさせている、と。
そのことがますます彼を苛立たせるのだ。
不機嫌さを隠そうともせずに、彼は眼窩を持たぬ異種族を冷ややかに見つめ返した。
「断る」
にべも無い答え。予想していなかった訳ではないだろうが、チェットはいささかたじろいだようだった。それでも一瞬あとには持ち前の立直りの早さを見せ、彼女は眼球のない“眼”で男をぐっと睨んだ。
「いいからっ! はやく!」
それと同時に彼女は手に持った小さな物体を力いっぱい投げつけた。
ウルフはそれを片手で難無く受け止め、手の平を開いて思わず顔をしかめる。
「……なんだ、これは」
彼女が投げて寄越したものとは、一体どこで見つけてきたのやら、柔らかくしなやかなリボンだったのである。
彼はそれを荒々しい指先でつまみ上げると顔の前にかかげてみせた。それから、困惑と呆れをにじませた唸り声。
「こんなもの——」
貴様の忌ま忌ましいお仲間にやらせればいいだろう、とウルフが怒鳴り付けようとするのを、チェットの顫動音が遮った。
「やってくれたら、今日は許してあげてもいい、けど」
疲れた体で武器を振るうことと、たかが一本の紐を結ぶこと。二つを天秤にかけた挙げ句にウルフがどちらを選んだかは言うまでもない。
自分の仕事の出来具合を見て、ウルフは思わずマスクの奥で眉間に皺を寄せた。
四苦八苦してなんとか結んだリボンはお世辞にも綺麗とは呼べず、自分の手は狩猟と“掃除”以外には向かないという事実を嫌というほど思い知らされたのだ。
この我が儘な小娘のことだ、確実に文句の一つ二つ……いや、文句の嵐を浴びせるに違いない。そう考えたウルフは、ことさら不機嫌な声を作って彼女を追い返そうと試みた。
「これで満足か。さっさと去れ」
——さあどうする、こっちは約束を果たした。言葉を違えるか? まさかな、お前にもそれなりのプライドはあるだろう?
ウルフの鋭い視線がチェットを射る。
ところが、“我がまま姫君”の反応は、彼が予想していたのと全く違うものだった。
チェットは悪態どころか口をつぐんだまま大人しく頷き、それから鉤爪の生えた指先で皺くちゃになったリボンにそっと触れると、満足そうに尻尾を揺らしてみせたのだ。
「いいわ」
チェットが背中を向ける。
「じゃーね、ウルフ」
走り去る彼女の頭で、しなやかなリボンがなびいていた。
「……礼くらい言っていけ、小娘」
きっとチェットは明日も彼の名前を呼ぶのだろう。
不器用な恋情と、高揚と、ささやかな期待を込めて、「ウルフ!」と。