棄てられない過去をあげようか

仕事を終えて自宅に帰ってくると客が居た。それも、招かれざる客が。
私は植木鉢の下に空き巣被害の元凶を隠しておくようなバカじゃないし、スペアキーを作った覚えもないのにどうやって入ったのか知らないが、そういえば今朝、裏の窓を施錠し忘れていった気がする。つまりバカだな。
招かれざる客もとい、まっとうな生活者ならまず関わりたくない存在ナンバーワンの“滞納者”で“路上生活者”で“薬中”で“娼婦”の女は、我が物顔で占領するソファから半分だけ身を起こした。
「おかえり」
「ベス……来るのはいいけど勝手に入らないでよ。私のクリーンな生活を汚さないでほしいんですけど?」
「あら、それは失礼」
しかもちゃっかりシャワーまで浴びたらしく、着ているのはどう見ても私のパジャマだ。
悪びれもせず舌を見せるベスが憎たらしくないと言えば嘘になる。だが無下に追い出す気になれないのもまた事実で、どちらかと言えば憎むべきはこの発酵寸前の腐れ縁の方なのかもしれない。
「はぁ……。いいや、もう。着替えてくる」
この際だから言ってやりたいことは山ほどあるが、仕事で疲れきった脳はそれ以上の追求をやめよ、まず休息を取れと命令を発していた。
さっさと着替えて冷蔵庫の中の出来合いのディナーを食ってしまえ、と。
ところが1ヶ月半ぶりの押し掛けを楽しむベスには私を放っておいてくれるつもりはないらしく、背後から好奇心もあらわな声が飛んでくる。
「物が減ってる」
「へっ?」
その唐突な言葉の意味がわからず、私は脱いだニットジャケットを片手にぶら下げたままの間抜けな格好で狭いダイニングを見回した。
減るどころか、最近はむしろ片付けをさぼってるんだけど。
「彼女、追い出したの?」
「カノ……ああ! 何言ってるの。確かに別れたけど昨日今日の話じゃないし。前にベスが来た時はもういなかったじゃない」
「そうだっけ?」
「覚えてないんだ? まぁ死ぬほど酔ってたもんね。そこらに吐きまくられて大変だったっけなー」
「うるさい」
本心からうるさそうにそう言うと、ベスはぷいっと横を向いた。
奔放と評せば聞こえはいいが、これじゃまるで反抗期の子供と変わらない。
黙っていれば……いや、もう少し態度を和らげるだけでいい、そしたらそのやたらと綺麗な顔ももっと引き立つだろうに、困った子。
「ねぇ、いいかげんクスリやめたら? 顔色悪いよ……言っても無駄なんだろうけど」
隣の寝室に移動して服を着替え、解放感をしみじみ噛み締めながらこれでもう何度目になるかも忘れた勧告を口にすれば、ベスも向こうの部屋から負けじと声を張り上げる。
「何言ってんの、あんただってやってたくせに」
「はーいストップ。学生時代の話はそこまでだ! そもそも私がやってたのはマリファナだけだし今は——」
「過去は全部清算した?」
そのひねくれたような返答は、意外と近い場所から聞こえてきた。
ぎくりとして振り向くとベスが戸口にもたれかかるように立っていて、開けっぱなしのドアのノブを意味もなくひねっては戻し、カチャカチャと音を立てて遊んでいた。
「どうなの?」
「どうって……なにが?」
ベスの素足が一歩、こちらに踏み出す。そしてまた一歩。
明日着ていくブラウスを選んでいる最中だった私のそばに、足音もなく近づいてくる。
「ベス? なんなの?」
返事はない。
その顔は微笑んでいるのに不用意に手を出したりしたら張り裂けてしまいそうなぎこちなさがあって、長い付き合いの中でも初めて目にする表情に、私の胸裏にはたちまち霧が立ちこめた。
私より数センチ背の低いベスの存在が今日はなぜだかとても重苦しく感じる。
とうとう息づかいを聞き分けられる距離まで密着されると奇妙な感覚はますます膨らんで、思わずのけぞった私はバランスを崩して背後のベッドに尻餅をついてしまった。
衝撃に一瞬、喉が詰まる。体の下でスプリングが勢いよく跳ねる。
「痛っ……!」
びっくりした、と続けようとしたが、そのセリフはまだ早かったようだ。だって本当に驚くべきはこれからだったのだから。
ベスが私の肩をやすやすと押さえつけてきたこと。そして、冷たい膝を脚の間に割り入らせてきたこと。
後ろに下がることも立ち上がることもできない私にのし掛かるようにして距離を埋めるベスの態度はあまりに……穏やかすぎた。
「酔ってるのかラリってるのか、どっち!?」
「どう見える?」
肩を押さえていた右手がするりと降りて、私の胸に張りついた。下着をつけてないせいで、指の一本一本にいたるまでの繊細な動きがダイレクトに伝わってくる。
「ひっ……!?」
「なに、その変な声。ただ埋め合わせしてあげようかと思っただけよ?」
「埋め……」
含み笑いのその言葉に、あんなに慌てていた気持ちが急激にくたびれるのを感じた。
ため息がこぼれる。気が抜けてしまったような、げんなりしたような、自分でも根源のわからない深々としたため息が。
バカにされたことに対する怒りはもちろんのこと、なにかこう……手酷く裏切られたような痛みもある。
“同性愛者は節操がないから相手を選ばない”なんてのはあまりにありふれた偏見だから、そんなのにいちいち傷付いたりしてたらキリがないのはわかってるけど。
「おあいにくさまだけど、私はわりと好みにうるさい方なんで」
胸に張り付いたままの無礼な手首を掴んで引き剥がせば、熱を失った左胸がスッと冷えていく。
こちらを見つめるベスの目元がわずかに引きつるのがわかった。茶色い眼の瞳孔は大きく開いて、潤んで見える。
まるで、まるで……自分の方が裏切りに傷ついたと言わんばかりに。
多少どころじゃなくズレてはいるが、ベスにしてみれば純粋な好意の延長線だったのかもしれない。一方的な施しや同情を嫌うベスらしいと言えばらしい提案ではあるし。
「ベス、聞いて。私は——」
「最低」
そんな見返りは求めてないと言おうとしたのをさえぎって、麻薬の赤い染みが目立つ唇が私に向かって吐き捨てる。だが、その理由を問いただすことはできなかった。
いつだって身勝手なその唇が、私の言葉をふさいでしまったから。
「う、……ふっ」
一秒、二秒、まだ熱は離れない。
のし掛かる体を押し返そうとしていたはずの腕からふにゃふにゃと力が抜けていく。違う。受け入れたわけじゃない。ただちょっとタイミングを逃しただけ……だって“最低”なんて言うわりに、あまりに優しくて痛ましいキスだったから。
あるいはこの子は、客に対してもこんなに優しいキスをするんだろうか。
「過去を全部なかったことにしたいんでしょ? どうせ」
間近で揺らぐベスの瞳は、いつのまにか茶色から深い青に変わっていた。ああそっか、たしか気分によって色を変えられるんだっけ。だけど、今の彼女が何を思うのかまでは読み取ることができなかった。
まったく、どうしようもない。
「あのねベス、私が本当にそうしたいと思ったら、一番初めに切り捨てるのは誰だと思う? あっと、“誰”じゃ答えを言ったのも同然か。“何”だと思う?」
今度は私が含み笑いをする番で、片やベスはすっかり拗ねた顔つきになっている。
「見返りも、代償も、取引も要らない。だから——」
「あんたって、殴りたいくらい最低」
この子に話を遮られるのは今日で何回目?
最後まで話を聞いたためしのないベスの恨めしい眼が私を睨みつける。だがその視線は、すぐにあらぬ方向に逸らされた。
人工ではない本物の唇が薄く開いて、また閉じる。歯を食いしばっているのが筋肉のこわばりから見てとれて、てっきりこのまま黙り込むのだと思った。
だが、赤い唇は再びほころんだ。
苦々しく、
「バカみたい。……そういうんじゃないのに」
それでいて心細げに。
「確かにバカみたいね。お互い様に」
この子が憎たらしくないと言えば嘘になる。だけど今、彼女が嫌いだと言ってもそれは嘘になるのだろうと、ベスの唇に自分の唇を押しつけながら私は思った。

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