Kitten Blue

「昨日助けていただいた猫ですけど、お礼にうかがいました」

一日中さんさんと輝いていた太陽がそろそろ休息を考えはじめた夕暮れ時、戸口に立つその女はいやにハッキリと言い放った。
吹き抜ける一陣の風がダークマンの黒いコートをはためかせる。その音を頭の遠くの方で聞きながら、彼はどこからどう見ても人間の“自称猫”を戸惑い顔で見下ろした。

「え、いや……?」

目まぐるしいスピードで記憶の引き出しを探る。
昨日、昨日……そうだ、確かにカラスにつつかれている野良猫を救出した。自由になるや否や一目散に逃げていったあの猫はたしか白地に焦げ茶色の模様で——
風に茶色の髪をなびかせつつ、女は小首を傾げた。

「もしよかったら少し中に入っても?」

どうぞ、と答えるほかなかった。彼は完全に呆気に取られていた。

「おじゃましまーす」

女はいやに上機嫌で、弾むような足取りで歩いた。まるで自宅を歩くような迷いのなさで。
ダークマンは幾重にも巻き付けた包帯の隙間から唯一覗く、ふたつの瞳で相手を注意深く観察した。
平均的な顔立ちと中肉中背の体つきで、特に変わったところは見受けられない——三角の耳が生えているだとか、尻尾があるということもない。服装もごくごく平凡で、いったん人混みに紛れてしまえば二度と見つけられないだろう。
困ったなと考えつつふと自分の手を見ると包帯がほどけかけていた。彼はそれを苦労しながら結び直し、重たい足取りで女のあとをついていく。
自宅に他人を通したのはこれが初めてだった。もっとも、ハトに間借りしている廃屋を家と呼べるとすれば、だが。
見慣れない人間の登場に、傾いた机の上でうつらうつらしていたつがいのハトが慌てて場所を移る。

「それで」

割れた窓の近くまできた時、ふいに女が立ち止まり、くるりと振り返った。

「お名前は? 黒コートさん」
「……ダークマン」

ペイトン・ウェストレイクを名乗るつもりはない。すでに葬り去った名だ。

「ダークマン! ダークマンね、OK、覚えた」

女は不審な表情ひとつ見せず、こっそり反応をうかがっていたダークマンを拍子抜けさせた。

「きみの名前を聞いていなかった」
「あら、これは失礼。リリーです、どうぞよろしく」
「リリー……」

これで名前はわかった。だがその正体と狙いは依然不明のまま。
家へ帰るよう諭すべきだろうか。抵抗するかもしれない。時折町で見かけるように、訳のわからないことをわめきながら。
だが、そうなったとして相手は女、こっちは190センチの男だ。恐れることはないではないかとダークマンは思い直した。
ところが、その時。

「来て!」

いきなりリリーが彼の手を掴み、これまた突然に走り出したので、ダークマンは説得どころではなくなった。それどころか転ばないようにするので精一杯。
ハトをさんざん驚かせながら、ふたりは外に飛び出した。空はいよいよ赤く燃えてはじめている。
リリーは足が早かった——そう、昨日の猫のように。人通りのない裏道や階段を跳ぶように駆けていく。
後ろを振り返るつもりもスピードを緩めるつもりもないらしく、ただダークマンの包帯で分厚くなった手をしっかり握りしめ、走りつづけた。

「ねえ、君、リリー——」
「質問はあとで! いいから走って!」

寂れた公園を突っ切って長い長い坂道に突き当たる頃には、辺りに民家はなくなっていた。このあたりは、ダークマンの住む廃屋が建つ場所よりもさらにひと気が少ない。
一日のほとんどを暗くかび臭い部屋の中で過ごす彼は、道がこんなに果てしなく続くものだとは知らなかった。もちろんこの坂の向こうに何があるのかなんて、想像すらつかない。

「早く早く」

やっとのことで坂を登りきり、二人は繋いでいた手をほどいた。
リリーは両膝に手をついてぜえぜえと喘ぎ、ダークマンはぼろぼろのフェドーラ帽を被り直す。よく飛ばされなかったものだと思いながら。
謎の女が息をととのえる間、彼は辺りの風景を見回してみた。
申し訳程度に舗装された車道で、あちら側からもこちら側からも車が来る気配はない。最後にタイヤがアスファルトを叩いたのは何時間前だろう?
おそらくは緑豊かな田舎町に続くのであろうこの道は、住民から忘れられたも同然だった。足元はちょっとした崖になっており、年期もののガードレールがかろうじて転落事故を防ぐ役目を担っている。
ガードレールのこちら側には何本かの樹木。鑑賞用に植えられたものではなく、森を切り開いた際の名残といった野性的な風情だった。
ふと気づくとリリーがそばに来ていた。どっしりとした木々のうちの一本を指差している。

「木登りは得意?」
「え?」
「これに登れる? あの枝まで」

言うが早いが彼女は慣れた様子ででこぼこの幹に手足をかけた。あっという間に目指す大枝までたどり着くと、しっかりと腰を落ち着ける。

「来て」

一瞬の逡巡のあと、ダークマンは革靴の足を幹のうろに差し入れた。尾を踏まば頭まで。どうせここまできたのだ、今更あとに引いてどうなるものでもない。
木登りなんて近所の子供が引っかけたフリスビーを取ってやった青年時代以来だが、存外手こずることはなかった。

「気をつけて。ほらもうちょっと」

リリーが手を差し伸ばしてくる。少し情けないような気がしたが、素直にその手を掴んで体を持ち上げると彼女の隣に落ち着いた。太い枝は安定感があって座り心地は悪くない。

「思ったより高いな……」
「うん、降りるのはもっと怖いよ、先に言っとくけど。でもよかった、間に合って」
「間に合って?」

何に、と尋ねようとして、その直前に気がついた。
——自分が今、落日の大劇場に居ることに。
完璧な円形をした夕陽が地平線を目指して最後の軌道を描く。ミニチュアのジオラマみたいな街が自分たちとは全く無関係な距離できらめいている。
ここはまさに特等席だった。リリーはこの光景を見せたいがためにあんなに急いでいたのだ。

「ここにくるとね、自由になった気がする。なんて言うか……」
「現実から切り離されたみたいだ」
「あっ、そう! それが言いたかったの」

嬉しそうに笑うリリーの瞳が夕映えの色に染まっている。髪も、ふっくらとした頬も、八重歯の覗く口元も。
ほんの20分前に初めて会ったばかりとは思えない、親しみを感じる笑みだった。

「結局君は……」

言いかけて、ダークマンは口ごもった。こちらを見つめるリリーの視線が痛い。

「信じてくれないの?」

傷ついたような声。まるでこちらが言いがかりをつけているような気持ちにさせる声に、ダークマンの良心がちくりと痛んだ。
彼はあわてて首を振った。そうじゃない、と否定しようとして。疑う気持ちはほとんどなくなっていた。
だがその時、リリーがふいにくすくす笑い始めた。

「まあ、嘘なんだけどね」
「……は?」

危うく枝から落ちるところだった。ダークマンが次の言葉を見つけられずにいると、リリーは頭上を仰ぎ、次に膝に置いた自分の左手をぼんやりと見つめ、そしてその左手で唇を触りながら告白した。

「前から知ってたの、あなたのこと。ほら、猫と遊んでるのを見かけてね。それで……」細い肩をひょいとすくめる。「一目惚れってやつかなあ?」
「だからって……」

こんなことまでするか、普通?

「ちょっと強引だったかも。でもどうしてもあなたに近づきたかったの」
「“ちょっと”どころじゃないんじゃないかな」

包帯の隙間からつくづく相手を見つめた。
こうなるとリリーにもさすがにばつの悪い顔をするくらいの分別はあるようで、彼女は両手をねじり合わせながらごめんなさいと呟いた。いたずらを叱られた猫もこんな顔をするのだろうか。
リリーの子猫のように青い瞳から燃える町並みへと目を移し、ダークマンは口をつぐむ。
夕陽はもう半分ほども飲み込まれ、眼前に広がるすべては巨大な影絵に変わった。
前に手を突き出してみる——この世のなにより輝く茜色を掴もうとして。
そしてゆっくりと手を下ろし、またリリーを見た。リリーも微笑みながらこちらを見ていた。
自分が猫よりも厄介なものを拾ってしまったのは間違いない。それでも……不思議と嫌な気持ちはしなかった。

「綺麗だね」
「ええ、とても」

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