だからいつまでも覚えていて

多くの足音と雑音と話し声が無尽に行き交う大通りから脇道に入り、等間隔に植わったイングリッシュ・オークと並んで歩き、角をふたつ曲がった先に、その住宅地はあった。
時刻は夜の10時。年の瀬を目前に控え、旅行に出て、あるいは親戚の集まりに参加するために留守にしている家もちらほらあるが、ウッズ家の窓には白い光が咲いていた。
シカゴ郊外ではよく見かけるケープコッド様式の、地味だが堅牢な造りの二階建ての家は、もともとレックスの両親が所有していたものだ。
夫のアレクサンダーが亡くなったあと、残された妻は冬場に1メートル半も積雪したりしない、もっと人類にフレンドリーな土地で趣味の写真やインテリアデザインの仕事を楽しむためにニュージャージーに引っ越して、家の名義を当時25歳だったレックスに譲り渡した。

若き冒険家にとって、子供時代を過ごしたこの家はかけがえのない存在だった。だから大切に守り抜こうという意志は堅い。
だが一人で住むには広すぎて、しかも交通の便もあまりよくないことから、数年も経つころには持て余し気味になっていた。
そもそも仕事でしょっちゅう世界中を飛び回っている身だ。このまま手入れをする人間がいなければ家がだめになってしまうだろう。
そこである晩レックスはベッドの中で考え、考え、考えて、5分の熟考の末に思いついた素晴らしいアイディアを、ふたりの親しい友人たちに披露してみることにした。
つまりこうだ。ネリーとイザベルもここで一緒に住むのはどうか、と。
ちょうどそのころ、付き合いはじめて半年のふたりは同棲のためにネリーの狭いアパートから引っ越しを検討している最中だった。
そんなわけで現在、ウッズ家にはネリーとイザベルのふたりだけが残っている。

「飛行機、大丈夫かな?」

部屋着姿のネリーが、カーテンの向こう側をこわごわ覗く。冴え冴えとした月に照らされて降り続く雪が不安なのだろう。
ちょうど同じことを考えてインターネットで天気予報を確かめていたイザベルは、「この程度で欠航にはならないはず」と冷静な意見を述べた。積もるほどは降りそうもないし、風もさほど強くない。

「よかった」

ネリーが心底ほっとしたような声を出す。
イザベルは何も答えなかったが、内心は恋人と同じだった。
ニュージャージーで一家団欒のホリデーを過ごすために、いまごろ空港で搭乗案内を待っているであろう友人のことを思うと、今日の空模様は気が気ではない。
なんといっても今年は近しい親類がほぼ全員集まるのだそうだ。珍しいことに、彼女の妹まで。
水上スキーとダイビングと熱い砂浜を愛し、寒さを目の敵にしている妹がはるばるフロリダからやってくると聞いたレックスの驚いた顔と、「あの子ったら家ごと飛行機に乗せてくるつもりじゃないでしょうね」というコメントを思い出して、イザベルは可笑しくなった。

「お母さんとこ行くの久しぶりって言ってたからねー」
「で、あんたは航空券でも取り損ねた?」

イザベルが冗談めかして尋ねる。ネリーはカーテンを閉めると、軽く首を振った。

「うーん、5時間もかけて嫌味だの罵倒だのを聞きにいくのはちょっと」

あの人たちの顔なんてもう何年も見てないし、声も聞いてないよと言葉を結ぶ。
声や表情に変化は見受けられない。そこには悲嘆もなければ、怒りも渇望も後悔も含まれていなかった。まるでそのように振る舞うための練習を何度も重ねてきたみたいに。
思えば、ネリーの口から家族の話が出たためしはほとんどなかった。高校卒業と同時に単身こちらに引っ越してきたこと、きょうだいは居ないこと、両親はメイン州ポートランドに住んでいること。それ以外を語りたがらなかった理由にやっと合点がいった気がする。
イザベルは孤児だが、家族がいるのに一人ぼっちの気分はどんなものだろうと想像した。ネリーにとって家族とはどういった位置付けなのだろうと。
しかし、まもなくネリーの携帯が高らかにさえずりはじめたせいで、思考は中断を余儀なくされた。

「はーい。雪大丈夫?」

ソファに座ったままのイザベルが見上げると、ネリーが笑顔で目配せを返して寄越す。
通話先はオヘア国際空港にいるレックスのようで、雪の影響で搭乗案内が40分遅れたものの、無事に離陸できそうだということがネリーの受け答えからわかった。

「ごはん? 食べたよ。ベルが作ってくれた。うんー?なんて? ああうん、大丈夫だって、風邪なんてもう10年くらい引いてない。はいはい。うん、じゃあご家族によろしく」

通話が終わり、柔らかな苦笑を浮かべたネリーがソファの隣に腰を下ろしてくる。そちらに向かって、イザベルはからかうような視線を投げた。

「親子にしてはずいぶん似てないけど」
「レックスはお母さんスキルがすごいよね」
「特にあんたに対しては?」
「そう……ほんとそうなんだよね、あの人なぜか私のことを産んだ気でいる」

ネリーが電源を入れたテレビに映像が灯る。
どうやらホラー映画の一場面らしく、あちこちで煙がくすぶる瓦礫だらけの街並みを、血まみれのゾンビの群れがうめきながら闊歩している。
その映像をぼんやりと瞳に映しながら、イザベルは込み上げてきそうなあくびをため息で塗りつぶした。沈黙を埋めてくれる役には立つが、なんて凡庸でつまらない作品だろう。

「……私がアメリカ人について知ってる唯一は」

イスラエル人スナイパーはおもむろに口を開いた。なにか皮肉を思いつくと、口にせずにいられないのが彼女の性分だ。

「死人に偏執狂的な恐怖を抱いてるってことくらい」
「じゃあベルは何が一番怖い?」
「さあね、砂嵐とか?」
「え、なにそれ……ていうか普段映画とか観る?」
「そんな暇があればいいけど」

同じ姿勢でいることに疲れてしまい、イザベルはもぞもぞと身体を動かした(ひとたび任務となれば、下生えの茂みに身を隠して、あるいはかび臭い廃墟の床に座り込み、あるいは雨が降りしきるジャングルの泥にうもれて腹ばいになったまま、何時間でも息を潜めていられるのに)。
すると突然、ネリーに腰を抱き寄せられた。部屋着のゆるいパーカーごしに、深爪気味の指の存在を感じる。
イザベルは少し迷ってから、肩の力を抜いて無言の誘いに応じた。
ネリーの頭に自分の頭をもたせかけていると、だんだんまぶたが重たくなってくる。屋外の身を切るような寒さが嘘に思えるほど部屋の中はあたたかく、それがまた眠気を誘う。
このまま少し目を閉じているのもいいだろうか、それともネリーがもっと別の……そういう“誘い”をかけてくるだろうか。
そんな予感が頭をかすめたのは、ネリーの指がこっそりと動きはじめたのに気づいたからだった。
手のひらが腰から背中を這い上がってくる、虫が這うのにも似たくすぐったさに全神経を集中した。
一体何を企んでいるのだろう。ネリーの視線はテレビに釘付けになっているものの、左手は確実になんらかの意図を秘めて、今もゆっくり動いている。
軽く後ろ髪を引っぱられるような感触があり、ややあって、三つ編みをほどかれたのだとわかった。

「ちょっと」

イザベルが言葉少なに咎めると、ネリーは顔をこちらに向けて、悪びれる様子もなく笑った。

「なんか、やりたくなっちゃって」

優れた狙撃手であるイザベルは、自らをコントロールする術に長けていた。
どのような困難な任務や厳しい状況下においても、呼吸や心拍数を極限まで落とし、腕や肩の筋肉を制御し、スコープの小さな十字線の位置を適切に保つことができる。
また、必要であれば自分の心を氷漬けにして殺すことだってできた。
それなのに、今はこの気まぐれな恋人に振り回されて疼く胸をなだめることも、ぴりぴりした電気信号を断ち切ることもできず、何かを期待するばかりの自分自身に怒りを覚えた。

「よしよし、ごめんごめん」

生まれてから一度も武器を握ったことがなく、他人を殺めたこともない手がイザベルの髪の隙間にもぐり込み、子供を寝かしつけるような愛撫を与える。
癖毛の黒髪がふわりと広がると共に、花と柑橘系の香りが漂った。普段は香りの立つものを使わない——シャンプーであれ、ボディーソープであれ、衣類用洗剤であれ——イザベルにはその香りがことのほか新鮮だった。
これは彼女にとって特別な意味を持つ香りだった。軍人ではなく、国のために働く暗殺者でもなく、ただのイザベル・シェリーとして過ごす時間のみ身に纏える芳香。
ふたりの間に穏やかな沈黙が落ちた。
前のスツールに投げ出されたネリーの足先が、映画のBGMにあわせてぴょこぴょこと揺れている。
イザベルはその時になってはじめて、自分が膝を立てて座っていることに気がついた。
いつでもすぐに立ち上がれるような体勢でいることが、無意識の肉体にまで染みついてしまっている。結局、軍人はどこまで行っても軍人でしかないということか。
その膝をネリーにぽんぽんと叩かれて、混濁しかけていた意識がふっと浮上する。

「眠い? もう寝よっか?」
「平気」

イザベルはそう答えながら、ほつれて顔に落ちかかってきた前髪を耳の後ろにかきあげた。
そのまま両手をすべらせていき、頸動脈のあたりに押し当てると、一定のリズムを刻む拍動が伝わってくる。スコープを覗いている時よりもやや速い。
この眠気は部屋の温もりのせいなのだろうか。それとも疲れているだけだろうか。だが、ネリーの勧めに素直に従うのはしゃくだった。
それに奇跡的に手に入れた今回の休暇だって、それほど長いわけではない。眠っている時間すら惜しかった。

「私さぁ、絶対生き残れないタイプだと思うんだよね」
「何? 映画の話?」
「そうそう、ゾンビが発生したら。野菜の千切りと指笛って何かの役に立つのかな」
「その前に足の遅さを気にすれば?」
「ベルだってそこまで速い方じゃないじゃん〜。でも私、本当に逃げるしか選択肢がないな?」
「大抵はみんなそうなんじゃない。ああ、でもレックスなら立ち向かっていきそうだけど」
「それは正直めちゃくちゃわかる」

ネリーの視線は再びテレビ画面に釘付けになっていて、化粧っけのない横顔が明るく照らし出されている。瞳には四角形の白いきらめきが写り込んでいた。

「私はねぇ、ゾンビになったら真っ先にイザベルのこと噛みにいくよ」
「だろうね」
「だってひとりになるのは寂しい……」

語尾が尻すぼみになり、糸が切れるようにぷつっと途切れた。
その瞳が翳ったように見えて、イザベルはぎくりとした。ネリーが泣いているのではないかと思ったのだ。
だがほんの少し目線を伏せたネリーの目元に涙はなく、彼女は身を乗り出してイザベルのこめかみに軽く触れるだけのキスをすると、まるで解けない数学の難問に思い悩むような真剣な声で話を続けた。

「でもやっぱりやめるね」
「何を? 私を噛むのを?」
「うん。もしベルもゾンビになってくれたらずっと一緒に居られるかなって思ったんだけどさ、でもゾンビになったら記憶とか消えちゃうかもしれないじゃない?」

子供じみた仮定にまじめに付き合う気になれず、イザベルは気のない口調で「それで?」と先をうながした。
テレビ画面の中でまたもう1人、女が眉間を撃ち抜かれた。この至近距離であんな大口径の銃を使ったら、顔の上半分が吹き飛んでもおかしくないのに、女の額にはぽつんと赤い穴が生じただけだった。
予定調和な悲劇を盛り立てる音楽と共に、女が地面にくずおれる。同時に、ネリーがゆっくりとまばたきをした。

「そしたら……思うんだよね。私があなたを好きだったこととか、あなたが私を好きでいてくれたこととか、全部なかったことになっちゃうのかなって」

イザベルがソファの背もたれから体を起こすと、ふたりのあいだに生じた隙間に生ぬるい空気が滞った。ぬくもりを分かち合っていた肩が急に寒い。
正面からじっと見つめられて、さすがのネリーも気恥ずかしそうにはにかんだ。頬が赤いのは風呂上がりのせいなのか、室温のせいなのか、それとも感情の変化によるものなのか。
だがイザベルはその答えを求めるのをすぐに諦めた。そんなのはどうでもいいことだ。
もとより無口なイザベルが長広舌を振るうことは滅多にないが、この時もまた、短くこう応じただけだった。

「その時がきたら私がケリをつける」

こんなばかばかしい仮定の遊びに乗っかってしまった自分に呆れつつ、だが不思議と嫌な気分ではなかった。
ネリーに銃口を突きつけるイメージを思い描こうとする。それは、自分の頭に弾丸を打ち込む一瞬を浮かべるよりもずっとずっと難しかった。それでもイザベルは自分の迷いのなさを証明するかのような口調で続けた。

「一瞬で終わらせるから」
「今まで聞いた中で一番優しい言葉だね」

ネリーはもうテレビを見ておらず、イザベルの手を取って自分の方へ引き寄せると、そこに頬をすり寄せた。
命を奪うことにあまりにも慣れすぎた手のひらに、唇がそっと押しつけられる。
やわらかい温もりはやがて小さな歯の感触に置き換わり、ネリーはイザベルの肌を軽く噛みながら、甘ったるく笑ってささやいた。

「約束できる?」

スナイパーの返答は、言葉ではなくネリーの頭を引き寄せるしぐさによって表された。
彼女の嗅覚は、ネリーの髪から自分とは違うシャンプーの香りを、胸元からは同じボディソープの香りを認めた。その奥でかすかに漂いはじめた欲情の甘い気配が自分と同じかどうかはわからない――今はまだ。
ほんの小さく始まったキスが次第に広がり、強さと親密さを増していったとき、イザベルは早鐘を打つ鼓動がもはやコントロール不可能な領域に陥っていることを受け入れた。

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