Tide

背後でブーツが砂利を踏む音がした。
辺りを警戒しながら徐々に近づいてくる一人分の足音は、私が長年慣れ親しんできたもの。
「どうかした?」と問いかける声も、また。あまりに予想通りなその質問に、私は川面に視線を据えたまま短く笑った。

「どうもしないと思う? この状況で」

声の主であるイザベルは何も答えず、なおもざくざくと砂利を踏み鳴らしながらこちらに近づいてくる。
澄んだ水面に映る膝を抱えた私、その横に彼女のほっそりとしたシルエットが並んだ。

「戻ろう。離れない方がいい」
「気が済んだら戻るよ」

苛立ちを隠しきれないため息が聞こえて、私はイザベルが浮かべているであろう刺々しくも気高い表情を思い浮かべた。
そうしたら急に息が苦しくなって、泣きたいような怒りたいような気持ちがとめどなく押し寄せて、そのうえイザベルがまだそばにいるからもっともっと苦しい。

「アオイ」

地面に膝をつく彼女との距離がさらに近くなる。革手袋越しの体温が左肩に触れた。
鼻の奥がツンとして、だけどきっと一度でも泣いたらおしまいになると私はわかっていた。少しでもこの感情を吐露したら負けになる。

「もういいよ、行って」

意地を張ってる訳じゃなくて、心配してほしい訳でもなくて、心からの懇願だった。
今なら私まだ耐えられる。まだせき止められる。だから早くどこかへ消えて。私のために。あなた自身のために。
……なのに、なのに私に寄り添ったりするから。

「イザベルが悪いんだからね」

急に押し倒されたというのに、イザベルは表情ひとつ変えはしなかった。
薄い唇をきゅっと引き結び、まっすぐこちらを見つめ返すその頭の中で何を思うのか、私にはもうわからない。

「ねえイザベル、……イザベル、ねぇ。もうわかんないよ」

広く開いたタンクトップの胸元にかけた指をわずかに引き下ろす。スカーフの下の喉がひきつった気がしたが、予想に反して平手打ちも罵倒も飛んでくることはなかった。

「拒絶しないの?」
「してほしいわけ?」
「質問に質問で返すのは私の専売特許だと思ってた」

イザベルのきりりとした眉が少しだけ和らいだ。私はそんな彼女の額からほつれた髪をはらってどけてやり、頬についた汚れを親指でぬぐった。
汗でしっとり濡れた頬は思っていたより柔らかく、そのまま手のひらで包み込むとぴたりと張り付いて馴染んだ。柔らかいもの。百年ぶりに触れた気がする。

「……イザベル」

だからもう我慢できなくて、苦しくて、苦しくて、怖くって、キスしたのはほとんど衝動。
驚いたのは、きっとかたくなに引き結ばれたままだろうと思っていた唇がほころんだこと、そしてその唇が私のそれをついばみ始めたことだった。
予想外のことに思わず体を離してしまった私の眼に映ったのは、プライドをくじかれたような間の悪い表情を浮かべたイザベルの顔。
そういう私はきっと比べようもないくらい間抜けな表情をしてるんだろうけど。

「なんで突き放してくれないの? なんで……だってそうじゃなきゃ——」
「まず黙ったら?」

イザベルの手が私の頭を引き寄せて、また唇がぶつかった。
角度を変えて何度も柔らかい熱が押し当てられ、下唇が優しく吸われる。侵入してくる舌はもっと熱くて脳が溶けそうだった。

「絶対に生きて帰る。私もあんたも」

吐息混じりにイザベルが囁いてくれたとき、私はこの地獄に落とされてから初めて「きっと大丈夫」、そう信じられた。

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