こどく

重たい、淀んだ空気が身体にまとわりつく。汚泥のように嫌なにおいのするそれが、部屋中を満たしている。
正方形の部屋は狭くて粗末で、錆の浮いた出入り口ドアが一つだけ用意されているほかには明かり取りの窓すら見当たらなかった。
すすぼけた汚い壁には絵画も時計もなく、もちろん家具のひとつもない。のしかかるような圧迫感をかもしだす低い天井からぶら下がった裸電球が、インテリアと呼べる唯一の存在だ。
ここにいるのは私と男のふたりだけ。互いの膝は触れ合うことはなく、だけど離れることもない。男は拘束具を着せられたうえに椅子に縛り付けられていた。

「おい、そこの腐った豚女。時間を無駄にしてるぞ。てめえに話すことなんかない」

男がアラビア語で毒づく。耳障りにかすれた声の理由は先の拷問で受けたダメージと嫌悪の表れと、どちらもあるだろうけど、そんなの私にはどうだっていいことだった。
捕虜の命は同胞の命の何分の1の価値なのだろう。
よくもこんなに語彙が豊富なものだと感心するくらいに次々と女性蔑視的な悪態をぶちまける彼は神に罰せられるのだろうか、と考えたが、別にそれを期待しているわけじゃなく、どちらかといえばそうじゃないほうがよかった。
だってもし神が本当にいるのなら、私も彼と同じくらい厳しく罰せられるのだろうから。

「モサドがあなたの身柄引き渡しを要求してる。それもしつこく。これだから軍人はのろいんだってすごく怒っててね」

私は彼の言葉を途中でさえぎって、そう告げた。
かれこれ17分間も罵詈雑言をわめき散らしていた男が急に押し黙ったのは、単に怒鳴り疲れたからだろうか。あるいは、モサドという単語でこの会話の行く末を察したのか?
くすんだ床に染みついた、抽象画アートみたいな血痕の数々から男の方へと視線を戻した。

「でもね、こっちもまだあなたに用があるから。誰か代わりを探さないと。奥さんと娘さんはあなたと同じくらい頑丈?」

いつも不思議で仕方ないんだけど、この手合いはどうしてわざわざ家庭を持ったりするのだろう。テロリストのくせにリスク管理もできないなんて。
それとも妻も子供もただの隠れ蓑でしかないのだろうか? いや、今にも火を吹きそうに激昂した男の態度がそれを否定している。

「ナジュマは妊娠8ヶ月? ま、頑張ってくれたらいいね」

男が熱くなればなるほどに、反対に私の心は冷たく沈んでいった。
誰かの大切なものを奪い取ろうとする張本人が失いたくないものを大切に抱え込んでいるなんていかにも滑稽で、どうしようもなく愚かに思えたし、そして、この男はなんて無価値なんだろうとも感じた。
マシンガンのように次から次へと飛び出す罵倒の勢いは衰える様子もなく、もしボロ布のマスクを被せられていなければ、彼は血走った目を剥きながら私にむかって唾でも吐きかけてきただろう。
男の意味のない戯言は、部屋を辞す私の脳にはもはや届いていなかった。

尋問を終えたあとはいつも頭の奥底がイライラしてしかたない。
手の届かない深い場所で何かがギチギチ軋んでいて、だけど取り出したくても指先一つさわれない。
もどかしさと激しい怒りのせいで速まった鼓動をしずめるために努めてゆっくり息を吐きながら、自分の手を見下ろした。
尋問室のドアを閉めた際についた汚れが目に入る。赤茶けたそれはただの錆だろうけど、まるで血のように見えた。

「ひどい顔色。部屋で休んだ方がいいよ」

そう背後から声をかけてきたのは年若きスナイパー、イザベル・シェリーだった。
大げさなくらい煌々と照らされた廊下を、こちらに向かって歩いてくる。このひとって猫みたいに足音がしない。
孤児として育ち、ほんの少女の頃から狙撃手としての訓練を叩き込まれてきただけあって、彼女は頭から爪先まで何もかもが軍人、いえ、まるで軍そのものだった。
そのせいだろうか。ライフルを担いでいない彼女を見ると、いつもなぜかおかしいような、心もとないような奇妙な感情が湧き上がるのは。なんだか妙に物めずらしく思えてしまう。

「別に平気」

私はそう答えたが、無論、平気でないことは自覚していたし、こんな薄っぺらい言葉一つでイザベルをごまかせるわけがないことだって、ちゃんと理解していた。
案の定イザベルはいかにも不服そうに眉間に皺を寄せながら、視線だけで私を咎めてくる。その何もかもわかったような気でいる驕った眼差しに、耳の奥で鳴り続ける軋みがますます音量を上げた。
だけど彼女はそれに気づけない。
この音は私にしか聞こえず、この痛みは私にしかわからない。
私は黙って立ち去ろうとしたけど、スナイパーの資質として求められるものの一つである忍耐力は、時として執念深さにすり替わる。

「ニーナ。待って」

イザベルの手が——武器を持たない素手が私を捕まえようと伸びてくる。それを視界の端に捉えた瞬間、理不尽な怒りに苛まれ、心臓が冷たく燃えるのがわかった。
こうなったらもう何を考える余裕もない。反射的にイザベルの腕を振り払ったあと、そのまま両肩をつかんで廊下の壁に押しつけた。

「なに? ほら、待ってあげたよ」

イザベルは黙って私を睨みつけるだけだ。
突然の暴力行為に彼女が何を感じたにせよ、そしてぶつけた背中に痛みを覚えたにせよ、その端正な面立ちが歪んだのはほんの一瞬に過ぎなかった。
こちらを見据える眼差しの揺らぎのなさに、ますます腹が立つ。

「いつもそうやって余計なことばかりに首を突っ込みたがる……どうして?」

そう言って、わざと耳元に吐息を吹きかけてやる。さっきあの男に囁いたのより、もっと小さい声で。もっとわざとらしい声で。
背丈は私が上だが、腕力ならイザベルの方がずいぶん勝っているだろうに、彼女は私を押しのけようとも、殴ろうともしなかった。
無理やり重ね合わせた唇は拒絶こそされなかったものの受け入れられもせず、ただ行き場をなくした舌がときおり偶然に私の舌をこするだけで、イザベルはほとんどなされるがままになっている。
諦めと享受、そしてもしかすると少しの哀れみ。だけどそこに愛はない。愛だけがない。
この美しいひとは私を見ちゃいない。ただこの行為を受け入れることが一番楽で、最も早く解放される方法だと学習しているだけで。
これだったら突き飛ばすか、殴るか、噛み付くでもしてくれた方がまだマシだったかもしれない。
無抵抗な唇を前歯で挟む。このまま噛み切ってやりたい衝動が芽生えたが、そうする代わりに舌先をゆっくり這わせた。
顔を離すと同時にまたあの眼差しが私を穿つ。煌々とした光の下で、スナイパーの瞳はいつもより明るい色に見えた。

「で、もう気が済んだ?」
「いいえ、全然」

苛立ちが金切り声のように全身に響き渡った。叫び出したいくらい腹が立つ。でもそれがなぜなのかはわからない。
あの部屋でさんざん感じた息苦しさが逆流して喉を詰まらせるから、その感覚から逃げるために、もう一度、生意気な唇を夢中で貪った。今度は息も許さぬほど激しく、乱暴に。
イザベルの途切れ途切れの呼吸に苦痛が滲むのを聞いて、私は彼女の後頭部を押さえ込んでいた手をほどくと首筋に這わせた。
速いリズムを刻む頸動脈から喉元へ、そして鎖骨をなぞって肩へ……そのまま軍服のジャケットをはだけると、さすがに抵抗のそぶりがよぎったが、私の腕に爪を立てた指はすぐに力を失った。
それが妙に気に食わなくて、本当に犯してやろうかという考えがよぎった。
実行に移さなかったのは、一度行為を始めたら自分の感情に歯止めが効かなくなりそうだったから。きっと私は彼女をめちゃくちゃにしてしまう。
さっきの粗暴なアラブ人と一緒に監禁してやってもいい。彼女が殴られて、犯されて、自力で立てなくなるまで何度も何度も犯されて泣きながら、それでも悲鳴だけはあげまいと、奥歯を食いしばる顔が見たかった。
そうすれば、私の頭の奥底に身を潜めるこの忌まわしい腫瘍を取り除けるような気がしたから。

これは裏切りなんだろうか。
私を信頼してくれているはずの仲間への裏切り行為になるんだろうか。だとしたら神はこれをお許しになる?

渇望の波が急激に引いていく。
私は今まさにイザベルの服に差し入れようとしていた手を引っ込めると、廊下を後ずさって反対側の壁にもたれかかった。
稼いだ距離はほんの二メートル。それ以上どこにも逃げられない私は壁に背中を押しつけたまま、ずるずるとその場に座り込む。すると、イザベルも床に膝をついて、私の顔を真正面から見つめてきた。

「あんたは……1人で随分忙しいね。疲れない?」
「私が今なにを考えてるか知ったら、あなたは私を二度と許さないし信用もしないでしょうね」

私の発する言葉が人を楽しませたり、笑わせたりすることはほとんどない。
いつだったか誰かに面と向かって非難されたように、私がひどく批判的で独断的な人間であるせいだろう。
だけど美しきスナイパーの唇には——見間違いでなければ——微笑みが浮かんでいる。
イザベルは皮肉めいた、同時にどこか楽しげな様子で片眉を上げると、こう応じた。

「それは心配いらないんじゃない? もともと存在しないものはそれ以上失われたりしない」

今度は私の方が笑わされた。傷心よりも安堵が——深い安堵が湧き上がっていた。

「そうね、それがいい」

イザベルの頭を抱きしめて自分の首筋に押し付けながら、その髪に何度もキスをした。再び渇望が押し寄せることはない。あの怒りも、苦しさも。
狙撃で鍛え上げられた力強い腕が私を抱き返してくれた時、涙が彼女の黒髪に吸い込まれていった。
もともと存在しないものはそれ以上失われたりしない。誰にも奪われたりしない。絶対に。

ええ、そうね、イザベル。


尋問室の椅子にはアラブ人が縛り付けられたままになっている。
もはや逆らう気概を失ったのか、それともまだ気絶しているのか、胸に顎がつきそうなほど頭をうなだれた彼は身動きひとつせず、私はそんな男の周囲に飛び散った血痕や、折れた歯や、皮膚の破片をぼんやり見つめながら、ある言葉を思い出していた。

蠱毒。

確かそう呼ぶのだったか。
古代中国で行われていたという呪術の一種で、狭い壺に多種多様な虫を閉じこめて、虫達が互いを食い合うように仕向ける。やがて最後に勝ち残った虫には強い呪いの力が宿るのだと。
軋む音が、また聞こえる。男の姿は意識から遠ざかり、あの美しいひとの不器用な笑顔を思い出した。髪の匂い、唇の感触、両腕の強さまでも。

蠱毒……

だったら、この部屋にひとり残される私は何になるのだろう。

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