包み隠し

「終わった終わったー」「このあとどっか行く?」
「ローリー一緒に図書室いこ」「あ、待って」
「スチュアートの家でパーティだって」「クリスとジェシーも誘う?」「やだ知らないの? あの二人別れたのよ」
「エスターって子が……」
「ヤバいー生物学どんどん置いてかれるー」「なんでそんな授業取っちゃったの?」「俺は化学がヤバいよ」「いいじゃんウェストレイク先生優しいし。わかんないとこ聞けば教えてくれるっしょ?」
「バイトだるー」「あたしもー」
「ねー聞いて聞いて! 今日先輩がさぁ……」
「ちょっとごめんー、ヒューイットってこのクラスにいるー?」

終業のチャイムを皮切りに、教室には男女の声がどっと溢れた。誰も彼もが潤滑油を注したタイプライターのように賑やかに、次から次へと話題を生み出しては騒ぎ立てる。
特に平日最後の授業終わりということもあってか、今日は誰も彼もが饒舌になっていた。
だが窓際の席で涼しげな顔をしたニーナの耳には、そんな放課後の喧騒はほとんど入ってこなかった。
狭い椅子の上で器用にも膝を抱えて座るニーナの関心は手に持ったスマートフォンだけに注がれており、簡易のストップウォッチと化したそれはジャンケンで負けた友人がダイエットコークのペットボトルを握って戻ってくるまでの時間をカウントアップしている。
そうこうしている間に3分と25秒が過ぎ、どうやら今回も自分の最短記録は破られそうにないとニーナは確信した。
今回こそは、と自信満々だったカーリーには悪いが、きっと何度やっても同じこと。頭では少々引けをとったとしても、運動神経では決して負けないのだから。
ニーナはすっかり上機嫌になり、勝利のファンファーレ代わりにと、流行りの曲を口笛で吹き流しはじめた。
ところがその直後、いきなり後頭部をガツンとやられたために、あまり上手とは言えない演奏はワンフレーズで中止を余儀なくされたのだが。

「いっ、た!」
何かが飛んできてぶつかったとか、誰かの手が当たってしまったとかではない明確な意思のある一撃は、彼女の頭のど真ん中を的確に突いた。
そこを手で押さえながら振り返れば、犯人の姿に先立って、ホワイトボードと殴り書きの黒い文字が視界いっぱいに広がる。

『お前! 見えとる!』
「は、あ……?」

意味がわからなかった。
かろうじて呑み込めることといえば、仁王立ちのハリー・ウォーデンが大変ご立腹なことだけだ。ガスマスク越しの呼吸音はあまりに荒々しい。
怒りも痛みも忘れてぽけっとしていると、ハリーはますます苛立った様子で、ニーナの立てた膝を指差した。

「あっ!」

それでようやくニーナにも理解できた。ハリーはスカートの中のことを言っているのだ、と。

「ご、ごめん。悪かったですよ見苦しいもの見せて……」

でもそれならそうともっとわかりやすく教えてくれればいいのに。
慌てて椅子から両足をおろしながら、なんとなくいつものハリーと違うなとニーナは不思議に思った。普段のハリーならもっと積極的にからかってくるはずなのに。
たとえば窓が開いていることに気づかず消ゴムを植え込みにシュートしてしまった失態をさんざん笑われたのは記憶に新しいし、教室でうっかり傘を開いてしまったエピソードなんかはその後何ヵ月にもわたって話のネタにされた。
なのに今日のハリーときたら一体なにを怒っているのか、さっさと背中を向けてぐんぐんニーナから離れていく。
ちょうどコーラを手にかけ戻ってきたカーリーとぶつかりそうになりながら、黒づくめの男は教室を出ていった。
階段をかけ上がったせいでまだ息を弾ませているカーリーが訊いた。

「なんなの、今の?」
「知らない」


カーリーとその彼氏のウェイドとの話が思いのほか盛り上がった末に、気づけば時刻は6時近くになっていた。
日が落ちるのが早まってきたこの季節、徒歩通学のニーナは少し焦る時間帯だ。
勇敢な彼女も、夕暮れの頃に人通りの少ない道を一人でてくてく歩くのはやっぱりなんとなく心細かった。
ニーナは廊下の壁に連なるロッカーの一つから、自分の荷物と課題に必要な資料を選んで引っ張り出した。窓から射し込む夕陽でニーナの手や本はオレンジ色に染まっている。
それはなんだか現実味のない光景に思えた。生徒のほとんどが去った校舎も、笑い声の聞こえないグラウンドも、妙に暖かい廊下もそこに長く伸びる影も……何もかもがよくできた夢のようだった。
だからふと振り返って思わぬ人影を見つけても、ニーナにはすぐに実感がわかなかった。
ただ感じたのは、赤々と燃えるガスマスクがこれまでに見たことがないほど美しいということ。
真っ黒なゴーグルの奥はうかがえないが、夕陽の眩しさに彼も目を細めているのだろうか。想像してみようとしたが、難しかった。

「……あれっ? まだ残ってたの?」

我に返ったニーナが、不可思議に気づいてそう尋ねた。
廊下の奥から現れたということは、ハリーはずっと校舎にいたということになる。帰宅部で補習とも無縁の彼がこんな時間まで一体なんの用があったのだろう?
ハリーが早足に近づいてきたかと思うと、あっという間に自分を追い越していってしまったことにニーナは驚いて目をしばたたかせた。

「ハリー?」

答えはない。どこかふてくされた様子の彼はずんずんと音が聞こえそうなくらい乱暴に、ガラスドアに向かって大股歩きで進んでいく。

「ねぇー、ねえってば。聞いてる? あ、風紀委員のお仕事とか?」

ニーナもハリーの背をほぼ反射的に追いかけるが、なにせ脚の長さがまったく違うのだ。荷物の重さもあって、やっと追い付いたのは校門を出たところでだった。

「つっかまーえた」

黒い作業着の背中をぽんと叩いて呼び止めるとハリーはようやく立ち止まり、のろのろとニーナに向き直った。

「もー、無駄に疲れちゃったじゃん。っていうか私なんで追っかけてきたんだろ。……ま、いっか。せっかくだし一緒に帰る?」

ハリーは場を立ち去るようなことなしなかったものの、かと言って素直にうなずきもしない。理由不明の不機嫌は、まだ彼の中でくすぶっているようだ。
だけどニーナにはわかっていた。この案外意地っ張りな男は自分のもう一押しを待っているのだと。

「……あー、一人で歩くの寂しいなー。もう遅いしなー。誰か頼りになるイケメンに一緒に帰ってほしいなー」
『しゃーないな』
「ありがとっ」

ニーナはホワイトボードの文字を手のひらで消しているハリーから進行方向の空へと視線を移した。

「だいぶ暗いねー。ハリーん家……ていうか炭鉱って遠かったよね? いつも徒歩?」

歩調を合わせているせいでいつもより歩みの遅いハリーがうなずく。

「ふーん。私、ハリーが一回も遅刻したことないのが不思議でさぁ。一度もないよね?」
『他の奴には秘密やで。実はな、瞬間移動使えんねん』
「そんなジェイソンじゃあるまいし!……え、ガチなやつ?」

笑い声なのであろう吸気音が返事代わりだった。またしてもからかわれたと知って、ニーナはハリーの肩を強く押した。

「しょーもない嘘つくな」
『あれ会得したいわー』
「あ、そういえばマイケルもたまにしない? いつのまにか消えてたり現れたり」
『あれ見えへんとこで全力疾走しとるだけやで』

大真面目なハリーの様子に今度はニーナが笑い出す番だった。

「うっそだー!」
『いや、ほんまほんま』

そう言われても、いつも幽霊みたいにひっそりとしているマイケルが走っている場面なんて想像できない。
やっぱり走ったあとは脇腹が痛くなったりするんだろうか、などと考えて、ニーナは一人で噴き出しそうになってしまった。
そんな彼女の視界にふいに丸いなにかが割り込んできたのは、ちょうどその時だった。まるで競走馬の目の前に吊り下げられた餌のようにぷらぷらと揺れている。
受け取ってみると、それはキャンディの包み紙だった。

「え? くれるの? ありがと。でもどうせならチョコよこせ」
『そんなもん尻ポケットに入れてたら大惨事不可避やろ』
「尻ポケットに……入ってたんだ……」
『それな、先週誰かにもろたやつ。ずっと忘れとったわ』
「なんだったら何回か洗濯機で回しちゃってる可能性が出てきたな?」

しかもその“誰か”が誰なのか、非常に怖いとニーナは顔をしかめた。下手するとなにか良からぬものが混入してそうだ。
結局、若干べたついたあめ玉は路肩の蟻に献上して、ニーナはオレンジ色の包み紙で遊び始めた。四角に畳んでみたり、また開いてねじったりするたびに、薄いセロファンはカサカサと頼りない音をたてる。
しばらくの間、そのかすかな音だけが無言の二人の間に漂っていた。

「……ねえ、さっきの、もしかして」

限界まで折り畳んだセロファンを再び大きく開いて、皺だらけの四角形を空にかざす。暗く沈んだ空の真ん中に、ぽっかりと夕焼け色の窓が咲いた。

「ずっと待ってくれてたの?」

するとハリーの腕が、ニーナの肩をぶっきらぼうに押した。

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