クローンとアイデンティティ

決まった時間ぴったりに、ステラは部屋の電子ロックを開けた。
胸に連合軍のマークが刺繍された白衣を着た彼女の足取りは軽く、『監禁棟』または『檻』と呼ばれる部屋の陰鬱な雰囲気にはまったく似つかわしくない。
その姿は少なくとも、このオリガ号における重要資産のひとつであるエレン・リプリー8号の部屋に立ち入ろうとしているようには見えなかった。
背後でドアがシュッと音をたてて閉まり、ステラは目を細めて円筒形の室内を見回した。
「こんにちは、リプリーさん。私ですけど……」

その場に立ち止まったまま耳をそばだてる。
返事はない。それどころか、物音ひとつしなかった。
空気の流れすら感じられない不自然な静けさはステラの高揚した気分を軽い恐怖に変えるのに十分で、彼女は化粧っ気のない顔に困惑の色を浮かべた。
決して広くはない部屋だが、照明が不足しているために隅の方まではよく見えず、まだ暗さに慣れない目をしばたたく。
唯一の光源である天井を仰ぐと、透明の強化プラスチック越しに、上の階を行き来する兵士の靴底が見える。
彼もまたこの任務に慣れきっているらしく、見回りの足取りはいかにもだるそうだった。

「リプリーさん?」

恐る恐る何歩か前に踏み出して、ステラはようやく探していた姿を見つけた。
ハイブリッドの女は壁に背中を押し付けるようにして眠っていた。
長い脚を胴体の方に引き寄せて、胎児のように背中を丸める彼女の濃い茶色の衣服はほとんど暗がりと同化してしまっている。そして、その体はまったく動いていないように見えた。

「おはようございます、リプリーさん。……リプリーさん?」

女は身じろぎひとつしない。ステラは急いでその傍らにしゃがみ込むと、床の上に力なく投げ出された手首を握った。
骨ばった手首は体温こそ低いものの、一定のリズムで脈を打っている。また、胸がかすかに上下しているのも見てとれた。
まったく、なにを不安がっていたんだか……プロの研究者らしからぬ自分を心の内で叱咤すると共に、ステラは苦笑混じりのため息を吐いた。
そしてほとんど無意識に、あるいは何かに引き寄せられるように、未だ眠ったままのリプリーの柔らかな髪を撫でた——次の瞬間、ステラは突然にして自分が“見られている”ことに気がついた。
一体いつの間に目を開けたのだろう? リプリーの黒い瞳がこちらを見据えている。
ステラはほとんど反射的に飛び上がり、あやうく転びそうになりながら後ずさった。愕然とするあまり口も聞けずに、白衣の上から心臓のあたりをぎゅっと握り締めている。

「幽霊でも見た?」

リプリーがゆったりと身を起こし、切れ長の目に秘密めいた微笑を浮かべた。

「戻っていらっしゃいよ」
「いえ、遠慮しておきます」

ステラは堅苦しい態度と声で首を振る。毎度毎度まんまとしてやられては恥をかく自分の学習能力のなさが情けなかった。

「そうね、そこにずっと立ってるのが楽しいなら。でもあなた、私に用があるんじゃなかった?」
「そう……でした」

リプリーに拘束衣を着せて検査室まで連行する一連の儀式が廃止されてからしばらく経つが、彼女が軍にとって貴重な研究対象であることに変わりはなく、認知テストと身体検査自体は今も定期的に行われている。そしてそれは、言うまでもなく最重要の任務である。
このままなにもせずに研究室に逃げ帰ったりしたら、上司たちからこっぴどく叱責されるだろうことは火を見るより明らかだ。

「では、お手数ですがそこに立っていただけますか?」

警戒の目付きを崩さないステラが、白衣のポケットから取り出した四角い機械をリプリーの前にかざす。
彼女のあまり大きくはない手にもしっくり馴染むそれは一種の医療用スキャナーで、いくつかのボタンを操作するだけで必要最低限の臨床的データを極めて短時間で得ることのできる最新型の医療機器だ。

「……はい、ご協力ありがとうございます。特に前回と変わりないようです」

小型の機械を再びポケットに滑り込ませてから、ステラはおずおずと切り出した。

「背中を見せてもらってもいいですか?」

やや間を置いてから、リプリーは「そうしたいなら」とうなずいて、軽く両腕を広げた。彼女の身体にあわせて作られたタイトなジャンプスーツは、前のファスナーでしか脱着できない。
ステラの手がためらいがちにファスナーを下ろしていくと、美しい乳房の曲線が現れた。皮膚はなめらかで、クイーンを取り出した際に生じたはずの縫合跡はまったく見えない。

「少し寒いかもしれませんが、すみません」

リプリーの背後にまわったステラが服を肩からずり下ろす。
背骨の左右に対角に並んだ四つの傷跡も、もうほとんどわからない程度に癒えている。それはかつて生えかかっていた“角”を切除した証だった。
ゼノモーフとおそろいの器官は、二度と再び生えてくる気配はない。
ステラは無言のまま納得の頷きを示した。

「ありがとうございました。服を着ていただいて結構で——」

次の瞬間に起きた全容を、ステラはすぐに理解できなかった。
まず最初に急な息苦しさを、続いて縮み上がる心臓の鼓動を感じ、やや間を置いて、後ろから引っ張られたのだとやっと理解した。
白衣の襟首を掴まれたまま、ステラは刺々しいため息をついた。叱責の一つでも飛ばしてやろうと口を開きかけて、だがその表情はすぐに諦めにすり替わった。
この美しく、だが気まぐれで突拍子もないハイブリッドとの決して長くはない付き合いの中でも、ステラはすでに多くのことを学習していた。

「……以前にもこんなことがありましたね。というかほぼ毎回、どこかしらを掴まれてる気がします」
「どうしてかしら。あなたを見てるとつい手を出したくなるのよ」
「せっかく素敵な声をしてるんですから、もう少し言語コミュニケートを活用してみたらいかがでしょう?」

場違いな微笑みが研究助手の唇を彩った。
彼女はさりげなく天井を見上げ、このちょっとした緊急事態に兵士が気づいてくれないものかと期待を抱いたが、この場所は上からだとちょうど死角になっているらしいことがわかっただけに終わった。

「私こういう……乱暴なことされるのは好きじゃないんですが。とりあえず服は着てくださいね」

ステラの指がリプリーの服のファスナーを直してやるあいだ、2人とも黙ったまま、ジーッというかすかな音に聞き入っていた。

「聴こえる?」

リプリーが突然問いかけてきたので、ステラは怪訝に顔を上げた。
何が、と聞き返すよりも、氷のように冷え切った指がうなじをくすぐってくる速度のほうがいくぶん早かった。その冷たさはステラの呼吸を詰まらせ、背骨に沿って不気味な電流を発生させた。

「あの、リプリーさん」
「あの子たちの声。私の頭の中で……ずっとここに」

ハイブリッドが一歩近づくのにあわせて、ステラの顔の上に落ちる影が色濃さを増す。その長身を生かしてやや威圧的なしぐさで覆いかぶさってくるリプリーから、ゆっくりと、優しく頬擦りされて、ステラの睫毛が心もとなく震える。
触れ合う肌はゼノモーフと同じように冷たくて、人間のものとは違う匂いがした。

「教えて、私は誰?」
「リプリーさんはリプリーさんですよ」

ステラは躊躇なく答えた。
だがハイブリッドの女がしっくりこないと言うように顔をしかめるのを見ると、その口調は懐疑的なものに変わる。

「じゃあエレン・リプリー中尉である方がいいですか?」
「私には……その記憶がある。生きた記憶も、死んだ記憶も。そこからは逃げられない」
「過去の記憶なんてただの夢みたいなものです」

考え込むようなリプリーの視線がつかの間虚空を漂い、再び研究助手の顔に落ち着いた。
彼女が再び口を開いたとき、その瞳からはさきほどまでの凶暴な捕食者じみたギラつきがいくぶん消えているようにステラには感じられたが、それでもハイブリッドは内心に抱えた怒りと混乱を隠しきれずにいる。

「嫌だと言ったとして、私にそれが許されるの?」
「許すというか……他人の許可なんて必要ないんですから」
「そのルールは私には当てはまらないわ」
「どうして? そんなことないですよ」

今度はステラがイライラして首を振る番だった。
強情な眼差しの奥に熱意に似たものを宿した彼女は、もう相手から目を逸らそうとはせず、自分は意見を変えるつもりは一切ないと言外に示しているようでもあった。

「あなただって同じです。あなたの存在をコントロールすることは、他の誰にも許されません」

10年前から続いているというクローン計画だが、新入りのステラは参加して数年にしかならないからだろうか、彼女のリプリーに対する感情は、古株の博士たちとはやや異なっていた。
ステラはリプリーのことを試験管で生まれた物体として見るのを嫌っていた。
上司らのように数字で呼ぶことも、ましてや『それ』や『あれ』などと呼ぶのも絶対に嫌だった。肉の副産物などと揶揄するペレズ将軍には怒りと軽蔑すら抱いているほどだ。

「もし本当に嫌なら、ただの“エレン・リプリー”になることだってできるんですよ。私もこれまで通りリプリーさんと呼びますから」

鋼のようなリプリーの表情にほんの一瞬だけ揺らぎが生じた気がしたが、ステラには確証が持てなかった。
その答えを見つけるより先に、リプリーが話の矛先を急に変えたせいだった。

「このままあなたとしたら、どうなると思う?」
「どうって……」
「ファックを」
「わ、わかってますよ! なんでいちいち口に出すんですか⁈」

ステラは呆れて両手を持ち上げることで、この突拍子もない話をおしまいにしようとしたが、内心では相手がこの程度で引き下がる女ではないことを知っていた。
特に今のように楽しいおもちゃが目の前にぶら下がっている状況ではなおさらだろう。それはこちらにじっと視線を注いでくるリプリーの様子からも窺える。
そこで若き白衣の研究者はしぶしぶと、同時に慎重に言葉を選んで続けた。

「別に……どうもならないんじゃないですか。私がしばらくリプリーさんに近寄らなくなるくらいで」

今度はステラの方から手を伸ばす番だった。
興奮した獣をなだめるように、リプリーの肩をそっと撫でる——ただし素肌ではなく、厚いジャケット越しに。
何かほんの少しでも間違えば、いや、そうでなくても、目の前のハイブリッドの気まぐれひとつで腕を折られる可能性があることはもちろん頭をかすめたが、その考えはブレーキペダルにはなり得なかった。

「でも他の人にばれたら多分、私は叱られて……担当から外されるかな。悪ければクビです」

リプリーは黙ったまま何も答えず、やがてゆっくりと天井を見上げた。ブーツの靴底は相変わらず無気力に、一定の速度で歩き回っている。
その視線が再びステラの上に戻ってきたとき、ハイブリッドの女性は奇妙なまでにゼノモーフに似たしぐさでゆっくりと首を傾げた。
そびえるような長身が投げかける影にすっぽりと包み込まれてしまったステラが見上げる先で、薄い唇は支配的で尊大な笑みを形作っている。

「なら、さっさと始めたほうが良さそうね」
「うーん。リプリーさんの話の通じなさ、私は結構好きなんですけどね」

ステラは困り果てたように微笑んで白衣の袖口をいじりはじめたが、その寄る辺ないしぐさは気まぐれな捕食者をますます自己満足に駆り立てるだけだとすぐに気づいて、悔しさに眉根を寄せた。
ラボに戻る時間はとっくに過ぎている。不服から漏れた短い唸り声は、しかし今のところ、リプリー以外に聞く人はいないようだった。

タイトルとURLをコピーしました