もしあなたと始まることになっても

二人でもくもくとテイクアウトの中華料理を食べているときの事、なぜだか急にハンゾーの右手が気になった。
ちゃんと五本の指が揃っている方の手は、優雅とすら呼べる仕種で箸を操っている。

「箸使うの上手いね」

向かいの席のハンゾーが無言で緑茶をすする。どことなく困ったような、何か言いたげな茶色い瞳がこちらを見た。

「ん?……あ、ゴメンそりゃぁ日本人だもんね」

知り合ってもう何年? なのに私は今だにその揺るぎない事実を忘れてしまいがちになる。
おそらくは彼がそれはそれは流暢な英語を扱い、この国の生活になじんでいるからだろう。ほんと、可愛げないくらい完璧に。

「ご馳走様」
「ゴチソウ、サマ」

二人揃って手を合わせた後、立ち上がったハンゾーがさりげなく私の分の食器と箸まで取り上げる。
その口元にうっすらと笑みが浮かんでいるのは……私の発音がおかしかったのだろうか? 日本語はむずかしい。
ハンゾーはそれきり黙ったままキッチンへと引っ込み、急に暇を覚えた私は頬杖をついてからっぽの椅子を見つめる。
そんな光景は見慣れているはずなのに、一人きりの食事だっていつものことのはずなのに、他人に触れたあとの空白はどうしてこんなに寂しいんだろう。とりとめもなく、ぐるぐるぐるぐる考える。
……まあ、そんな物憂い思いは足音一つ立てず戻ってきたハンゾーが背後から「包丁は」なんて声をかけてきた瞬間にたちまち吹き飛んでしまったのだけど。

「えっ、あ、右の戸棚の引き出し。二段目か三段目、多分」

自分がどれだけ驚いた表情をしているのか思い知らされるような詫びのこもった苦笑を浮かべ、ニンジャさながらの男は再び狭いキッチンにこもった。
引き出しを開けるガタガタという音と、紙袋を探る音が聞こえる。
そういえば20分前に昼食持参でやって来た彼が片手にそんなようなものをかかえていた気がする。

ハンゾーはたまにそうやって遊びに来るのだ。いや、遊びにと言うか、ずぼらな私の世話をしにと言うか。
自分のことくらい自分でするってば、とは幾度となく訴えた言葉だが彼には全く信頼されておらず、結局今日もずるずるとお世話になっている。

「いいお母さんになるよ、うん」
「……ん」

思わずこぼれた独り言に、ちょうど戻ってきたハンゾーが訝しげに目を細める。向かいの席に腰を下ろす彼の手にはみずみずしい香りのリンゴが乗った皿。
私はその皿から完璧な形にカットされた一切れをかすめ取って、「なんでも」と首を振った。

しばらくの間、沈黙が落ちた。かと言って息の詰まるようなものではなく、ただふいに訪れただけの静けさは心地好いくらいだ。
私がリンゴを噛み砕く音と、閉ざした窓の外で渦巻く様々な営みの気配だけが淡々と続く。
どこかで進行中の工事音、鳥のさえずり、子供の歓声、それらに掻き消されてしまいそうになっている、ピアノの音色。
とぎれとぎれにしか聴こえない曲には聞き覚えがある気がするけど、あと少しのところで思い出せない。
もしかしたら、じっと窓の外を見つめるハンゾーも心中に同じもどかしさを抱えているのかもしれない。そうだといい。
甘酸っぱい三切れ目を飲み込んだとき、そろそろなにか喋ってもいいような気になった。

「ねえ」

物静かな瞳がこちらを向く。
唇の端にかろうじてそれとわかる程度の笑みを浮かべたハンゾーは机の上で指を組んだまま——左手の指が足りないせいで少々不格好だ——皿に手を伸ばそうとはしない。

「食べないの?」

そう尋ねると彼は浅く頷いた。ふっと視線を下げるその何気ない仕種が憎らしいほど様になっていて、ついついからかってやりたくなる。

「ふーん……でも美味しいよ? あ、食べさせてあげよっか? ほら、あーん」

リンゴ片手に机に身を乗り出したらさすがにひるんだらしい背中がのけ反って、ああ今の録っておけばよかったって後悔。

「日本人はシャイだね」

なんだか知らないけど私までドキドキしてる、とは言いたくなかった。


「いつ日本に帰るの?」

ハンゾーの手から洗ったばかりの皿を受け取りながら、私は尋ねた。
彼は水道の蛇口を閉め、タオルで両手を拭い、それを几帳面に畳んだあとでいつも通り簡潔な答えをよこす。

「二週間後」

だいたい予想していた通りだ。

「今度はいつこっちに来るの?」
「わからない」

これも、同じく。
ところが次の質問、「今日はもう帰るの?」に対する反応はちょっぴり意外なものだった。
彼はまじまじと私を見つめたまま口をつぐんでしまったのである。

まくりあげていたシャツの袖を戻し、グレーのスーツを羽織るあいだもハンゾーはなにか考え込む様子で黙っていた。それからふと思い付いたように向きを変えると無骨な手で冷蔵庫の取っ手を掴んだ。
止める間なんてありはせず、中を覗き込むハンゾーの表情が固まった。ゆっくりと振り返るその顔には「信じられない」の色がありありと浮かんでいる。
そうね、ほんの少し……いや、結構、……えっと、正直かなりわびしい内容だと思う。ライトの明かりが眩しく感じられるほどの空白に、ビール缶が点々と並んでるだけって言うのは。

「夕食は」

どうするつもりなんだと、ショックから立ち直ったハンゾーが囁き声で訊く。どこか思い詰めたような調子が可笑しい。
彼が珍しくもため息なんてついたのは、笑ってしまった私を咎めているのか、それとも「ピザ取る」の返事が気に入らなかったのか。

「な、なによう、だってめんどくさいんだもん一人分作るの」
「作る」
「へ?」
「作る」

低い声がぼそりと繰り返す、その意味が頭に浸透するまでずいぶんかかった。

「ハンゾーが……?」

う、わあ。なんだろうこの感じ。どう答えたらいいのか迷って迷って「エプロンも着ける?」なんて我ながらくだらないセリフを吐くのが精一杯。
だけど静かな歓喜がわきあがってくるのをごまかせはせず、えへへと笑ったらハンゾーは不思議そうに瞬きをした。

ねえねえ、これってちょっと期待してもいいのかな。
——なにか新しいことが始まる、って。

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