形骸化してゆくだけの誓いならば

私たち家族が営むささやかな家畜農場はごくゆるやかな丘の上にあり、上空から見るときれいな楕円型の土地だった。北、南、西の三方にはバリケードよろしくジャングルが立ちふさがり、余所者と過剰な文明から私たちを隔絶する役割を果たしてくれている。
時おりそのジャングルからやってきては侵入を試みる鶏や牛狙いの野性動物を阻む目的で、農場の周囲に背の高い柵と有刺鉄線を張り巡らせてあるために、ただでさえ閉鎖的な空間がよけい際立った。
敷地の一番奥まった位置に経つ古びた平屋の一軒家は生い茂る雑草に取り囲まれて、ちょっと見るだけでは廃墟じみて思える。
夏が来る前に一度全部刈り取ってしまわなくちゃいけないんだけど。
庭を歩き回り餌をつつく鶏を眺めながら明日こそなんとかしてしまおうと心に誓う。
せまい歩道に茂る枯れた芦をかき分け、ご近所さんのヴァニアが姿を見せたのは、ちょうどそのときだった。

地味なブラウスとロングスカートに身を包み、ぱさついた長い髪を後ろでひとつに束ねたヴァニアは食器の乗った大きなトレイを両手に抱えていて、きびきびとした足取りでこちらまでやって来た。

「さっき作ったの。食べるかと思って」
「食べる食べる。ありがと。そこ置いといてくれる? あとで——」

いつもの差し入れを何の気なしに受け取ろうとして、どうもトレイの食事は二人分だと気がついた。ヴァニアの茶色い瞳はなにかを期待するようにじいっとこちらを見つめている。

「やっぱり今いただこう、かな……?」
「うん」

家の前に置いた古ぼけたベンチに二人ならんで、私は急に空腹を意識しはじめていた。今日は両親も兄も不在のため朝の日課を私一人でこなしたのだ。
小麦粉と水と塩だけで作ったシンプルなパンをむしり取り、トマトと玉ねぎのスープにひたして口に運ぶ。いつもヴァニアが作ってくれるのと変わらない、馴染みのある味に気持ちがほっとほぐれていく。

「ん、おいしい。ヴァニアは料理上手でいいね」
「うん」

私が食べるのを見守っていたヴァニアがほっとしたようになり自分のパンをちぎった。二人してもくもくと食べ続けるかたわら、鶏と牛と野鳥の鳴き声だけが聞こえ続けていた。

「そうだ、血抜きした猪あるんだけどね、食べきれないからちょっと持って帰らない?」
「うん」
「鶏は?」
「うん」
「卵いる?」
「まだいい」

ヴァニアの受け答えはいつだって簡潔を極める。長いセンテンスを操ることは滅多にになく、大抵は一語か二語で終わってしまう。
それでも実際に一言でも交わしてみれば、彼女は冷淡でもなければぞんざいな女でもないことは誰もが理解するはずだ。
柔和な声と皮肉を知らない実直さに加え、人の目をきちんと見て喋る落ち着きを兼ね備えているためだろうか。
こちらが恥じ入ってしまうほどまっすぐな瞳で見つめてくる癖は、私と話すときだけ特に顕著に表れた。
この子が私を好きなことにはもうはっきり気づいてる。それが友達としてじゃないことも。けどここみたいな閉鎖空間で起きる恋なんてものは限りなく消去法に似ていて、ヴァニアだけが例外だなんてどうしたら信じられる?

「この傷……」

先に食べ終えて手持ちぶさたになったらしいヴァニアが私の二の腕を指先で撫でてくる。そこを尖った木片で引っかいてしまったのはつい三日前のことだった。

「かなり派手な跡になってるでしょ。別に大丈夫だけどね、傷自体は浅かったから」

ベンチから立ち上がることで誘惑じみた指先から逃れ、ヴァニアの顔を見なくて済むように天を仰いで背を伸ばす。
今日のアルゼンチンは快晴で、風がほとんどなかった。

「そうだ、またオセロットが増えてるみたいだから食材の管理とか気をつけて」

手癖の悪い山猫は民家周辺にも普通に出没し、ひどいと家の中まで忍び込む。しかもせっかく育てた鶏を襲うことも珍しくないのがやっかいだった。
と言っても、今の私にとっては身長156cmの人間の方がよっぽどやっかいだったけど。
背後からお腹に巻き付いた二本の腕がベルトのように締め付けて、離してくれない。

「ヴァニアさんあなた来年30になるのよ……いったぁい!」

二の腕の肉をつねられた。しかも怪我した方の腕を。
うなじに顔を押し当ててくるヴァニアはなにも言わず、吐息だけが規則正しく肌をくすぐってくる。

「食べたばっかだから下手したら吐くよ」
「……ん」

さすがに腕の力がゆるんだ。体を反転してヴァニアに真正面から向き直る。それから軽く冗談でも言って押しのけるつもりが、こちらを見上げる瞳のあまりの一途さに動けなくなった。
目をすがめているのは怒ってるんじゃなくて単に眩しいからだろう。
浅黒く陽に焼けた頬が、太陽の光に照らされてなだらかな輪郭を強調している。手を伸ばしたらその暖かさを手のひら一杯に感じられそうだと想像して、胸がぎゅっと詰まった。

「そろそろ戻らなくていいの? 荷物運ぶの手伝ってあげるから」
「……まだ」
「でもここ暑いでしょ」
「まだ、平気よ」

次の瞬間、ふいに距離を詰めてきた唇に不覚にもビックリしてしまったのは認めなきゃならない。顔がすごく熱くなってることも。
ヴァニアはもう私の体には触れていなくて、視線だけで私をこの場に釘付けにしていた。
ねだられているものに気づかないふりをして髪を撫でてやれば、薄くて形のいい唇が少し傷付いたような形を作った。固く閉じられたままの口の端がこわばっている。
それでも、私がはっきりと言葉にして拒絶しない限りこの子は諦めないし、決して逃げることはない。

そんなヴァニアの意外なまでの気の強さが私は好きだった。
好き。そう、紛れもなく好き。好きにならないわけがない。

ただ私は不安で怖いのだ。ヴァニアに向けるこの衝動と熱望が消去法に帰依するものじゃないと言い切れないことが。
もしヴァニアを愛してしまったら、たったそれだけのことで何もかもがこれまでとは違ってしまって、このせまい楕円の安全地帯すら私の知らない形に変化してしまうんじゃないかと想像することが。
拒絶すれば終わってしまう。
認めてしまえば変わってしまう。

結局私は、ここから一歩踏み出すことさえできないくせに好意を手放すことも嫌がっている、ただの卑怯者なのかもしれなかった。

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    ヴァニアザ・タイガー
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