しらゆきひめはうたわない

このリビングルームは特別な場所だとジヴァは思う。
ここでは余計な音はなにひとつ聞こえない。一歩外に出ればそこかしこから響いてくるであろう急ぎ足の靴音も、酔っ払いの音痴な歌声も、カップルの笑い声も、真冬の寒風も、クラクションの絶叫とも無縁だ。
80年代後半のエコー・ベビーブーム期に建てられた地味でこじんまりとしたこのアパートが、まさかワシントンの——それも中央エリアにほど近い住宅地にあるだなんてとても信じられない。
気持ちがささくれ立つような夜の喧騒はまるで現実には存在しない悪い夢のように、ここから遠い遠いどこかに切り離されている。
精神的な拠り所としての意味だけではなく、そう言った意味での“特別”を感じずにいられなかった。
ここには魔術がかかってる、アビーならきっとそう言い表すだろう。とにかく、照明も室温も一番心地よく計算し尽くされた小さな部屋は、時間さえも忘れさせてくれた。

ニュース番組に飽きたジヴァが、家主の意向を尋ねることなく勝手にテレビの電源を消した。
最近この部屋に仲間入りしたばかりの座り心地のいい一人がけの肘掛け椅子に深くもたれかかって、ひとつにまとめていた髪をほどく。
くせ毛の黒髪に軽く手櫛を通しながら、ジヴァはゆったりと深呼吸した。
隣接する狭いキッチンから、煮詰まった砂糖とバター、そしてリンゴの甘い気配が漂ってくる。かすかに混じる香りはラム酒とシナモンだろうか。明日の朝食になるはずのアップルパイは完璧な仕上がりを期待できそうだった。
この部屋の持ち主であるニーナは決して粗雑な動作ではなく、でも鈍重でもなく、甘い香りのキッチンをいったりきたりしながら後片付けに没頭している。
ふしぎな話だが、眉目秀麗なニュースキャスターの顔を見ているより、食後酒のワインを温めているニーナの背中を眺めるほうがずっと楽しかった。
やりきれない気持ちになるたびに、ジヴァは必ずこの部屋に逃げ込んでくる。やりきれない理由を話して聞かせることもあるし、ないこともあった。

「今日は早く寝ようね」

目の前のテーブルにグラスを運んできたニーナがゆったりとした口調で言う。
ジヴァはそれに「そうだね」と素直に応じつつ、左右両側のこめかみを指で押さえて顔を伏せた。今朝からやけに頭痛がするのは前の晩に飲みすぎたせいなのか、それともハリケーンが近づいているからかもしれない。
痛みの度合いは耐えられないほどではなかったが、ニーナの気を引きたくて、わざと低くうなってみせる。

「ジヴァがつらそうだと私もつらいなー」
「頭が痛い」
「あらら。急に寒くなったせいかな」
「わかんないけど風邪じゃないと思う。熱はなかったよ」
「そう? それじゃあ眼精疲労とかかもね」
「ガン……何?」

秘密めいてほほえむニーナがジヴァの頭頂部を指先でそっとなぞる。咲いたばかりの花を愛でるような、赤ん坊をあやすような、そんなしぐさだった。

「目が疲れてるせいだと思うの。私もずーっとデスクに座ってた日はそうなるよ。どう?」
「あー……そうだね、今日は忙しくて。心当たりあるかも」
「じゃあ、あったかいタオルでも持ってきてあげよっか」

ニーナは自分の思いつきが気に入ったらしく、さっそくキッチンに取って返そうとしたが、一歩踏み出したところでつんのめって立ち止まった。
ジヴァが彼女の手首をいきなり掴んだせいだ。

「あとでいいよ」

その腕にさらに力を込めて、ニーナを自分の真正面まで引っぱってくる。アップルパイの甘い香りをまとった女は驚いたような顔をしているが、抵抗はされなかった。
淡いグレーの部屋着の裾がジヴァの膝をかすめる。ニーナの体で視界がふさがる寸前、テーブルにふたつ並んだ耐熱グラスと、そのなかで揺れる赤色が目に入った。
ロゼワインがニーナの好みだが、今夜は自分の嗜好にあわせてくれたらしいと気づいたジヴァの内心に妙な満足感が立ち込めた。
自分とは違う色をしたニーナの目に探るように見下ろされると、満ち足りた気持ちはますます色を深くする。まるでいまテーブルに二つ並んでいるシラーワインのように。
ジヴァはニーナの両手を使って自分の目をふさいだ。そして氷を押し当てられたかのような冷たさに思わず顔をしかめると、すかさずニーナの含み笑いが降ってくる。

「やぁね、私、洗い物してたのよ」
「そうだった」

ニーナが音もなくその場にひざまづき、ジヴァは黙ってその様子を見守る。ニーナに見下ろされるのも楽しいが、やはり自分が“上”になるほうがしっくりくるなと実感しながら。
ジヴァの太腿に頭を乗せて遠くを見つめるばかりのニーナが何を思うのかは知る由はなかったが、満足げな顔をしているから何か悩みがあるわけではないらしく、他人を慰めることが不得意なジヴァは密かに胸を撫で下ろした。

「さっき」

ふいにニーナの唇から、かぼそい声がぽろりとこぼれる。首筋をくすぐる手の動きだけでジヴァに続きをうながされ、彼女はさらに言葉を紡いだ。

「さっき今日は早く寝ようって言っちゃったでしょ? だからせめて……こうしてたいの」

ジヴァは上半身をかたむけて、親愛なる魔法使いの髪にキスをした。砂糖とリンゴの甘い香り、そして甘えて喉を鳴らす音。それ以外は何もない。何も聞こえない。
今夜もここは特別な部屋だった。

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