The Night Shift

バリーに背中を撫でられるたびに、エコーは歯を軋ませて唸った。そのくぐもった響きは威嚇よりかはうめきに近く、彼女が味わっているであろう苦痛を物語る。
なんてつらそうな声。
あの大騒動が起きてから早くも数時間が経つ。感染症を防ぐ薬と一緒に注射された鎮静剤の効果がそろそろ薄れはじめているのかもしれない。
私は重たい腰を上げて、一足先に引き上げた獣医が残していった医療バッグをそばに引き寄せた。
体温計、包帯、コンバットガーゼ、抗生剤、一回分の皮下点滴セット、ブドウ糖液、ステロイド軟膏、綿棒などが整然とならんだバッグの中から、あらかじめ鎮静剤が充填された注射器を取り出しておき、いざという時すぐに手が届く位置にスタンバイさせておく。

エコーの喉がまた苦しげな音を絞り出す。
いまはメディカルテープと包帯でぐるぐる巻きになっている、その頬から顎にかけてぱっくりと裂けた痛々しい傷口は私の脳裏に焼きついたままだ。
それに、エコーの甲高い悲鳴とブルーの怒声も。
幼い頃からリーダーの座をめぐって幾度となく衝突してきた二頭だが、今回のような本格的な争いははじめてだった。それだけ肉体的にも精神的にも成熟したということなのだろう。
不規則に拍動するオレンジ色の脇腹を、上から下へと指先で撫でていく。無数の咬傷や裂傷に触らないようにしているせいで、まるで迷路でもなぞってるみたいな奇妙な動きになった。
そうしながら、私はさきほどまでの光景を思い返していた。
砂埃をあげながら地面をのたうちまわる二頭の姿を。混乱と驚愕と恐怖の渦中で慌てふためく人々の表情、ざわめき、怒声、そして足音を。
全員がひどい不安に陥っていた。それなのに、このような序列争いは成長過程に欠かせないことなんだと、仕方ないことだからと説明した私はあまりに冷徹すぎたんじゃないだろうか。
うろたえる彼らを慰めようともしなかった。いくらアドバイザーとして雇われてるからといって、あの場で求められていたのは理論や理屈なんかじゃなかったのに。

それにオーウェン。彼のことも気がかりだった。
今頃はもうバンガローに戻っているだろうか、それとも手付かずの報告書を放り出したまま部屋中を歩き回ってる?
彼は“リーダー”だから、ここに来てエコーの介抱をするわけにはいかない。どうしようもないことなのだが、それがまた私の罪悪感をあおった。
さっきから黙ったままのバリーの横顔を盗み見る。視線がわずかに動いた気がしたが、照明を絞った厩舎は暗くてよくわからない。

「エコー」

私が驚いたのは彼が急に喋ったからじゃなくて、エコーが反応を示したからだ。
エコーは金属製の口輪を装着した頭をだるそうに持ち上げると、バリーの瞳を見つめ返した。まるでもう一度名前を呼ばれるのを待っているかのように。

「よお、起きたな。まだ痛むか? そうだよな……」
「エコーって呼んであげて。呼ばれるとちょっと安心するみたい」
「そうか?」
「きっとわかってるんですよ、この子も」
「そうだよな。なあエコー、いい子だから頑張れよ」

この隙に鎮静剤を打たせてもらうと、エコーの呼吸が徐々に落ち着きを取り戻す。手足のばたつきが弱くなり、ギョロギョロと周囲を飛びまわっていた視線がうつろになり、やがて眠りに落ちたのを確認して、私もバリーもほっと胸をなでおろした。

「助かった」
「寝てくれてよかったね」
「あーいや、俺はニーナが落ち着いてくれてて助かったって話のつもりで」

どう答えたらいいのかわからなかった。
私の精一杯は、微笑みとも呼べないようなぎこちない表情を作ることだけで、そしてそれは自覚してるより100万倍不細工だったに違いなく、バリーが耐えかねたように破顔した。

「おいおい、言っとくけど全然嫌味とかじゃないからな。なんだよその顔」

大きな口を開いて、目尻にしわを作りながら笑うバリーのおおらかな声はいまの状況にはあまりに不釣り合いだったが、少なくとも私の思考をそらしてくれる効果はあった。
胸で渦巻いていた後悔の淀みが少しだけ引いたような気がする。

「もともとこういう顔なんで」
「よく言うよ。知ってるだろ、どいつもこいつも美人アドバイザーとデートしたがってることくらい」
「ええー……」
「いや、ちっともふざけてなんかないぞ」

生真面目な性格の裏にいたずら好きの少年のような一面を隠し持つバリーは、しばしば罪のないジョークやユーモアを口にしては私を困らせるのだが、今回ばかりは不意を突かれてしまい一緒になって笑い飛ばすタイミングを失ってしまった。
まごつく私を見かねてか、彼は筋肉質な腕をもう片方の手でさすりながら弁解した。

「どうも褒めるのが下手くそなんだよな」
「いや別にそんなことはないと思うけど……そうじゃなくて」
「ならついでにこれも言っとくか。ニーナはいつも明るく振舞っててえらいよな」
「んー……!」

またそういうことを! 立てた膝のすきまに顔を押し付けてうなっていると、今度もバリーに笑われた。
普段はこんなことくらいで照れたりしないんだけど。
自分で言うのもおかしいが私は仕事熱心な方だと思うし、動物の扱いもそれなりに得意だから、そこだけはノース・カロライナ動物園に勤めていた頃からよく褒められた。
私は先輩の助言——「飼育員に求められるのは素直さなのよ。動物は人を見抜くからね。不誠実な人間は決して信用してもらえない」——を片時も忘れたことはなく、他人からの賞賛や好意は素直に受け取るようにしてきた。
相手が若い女だからというだけの理由で格下に扱うような人々の、幼児のご機嫌とりをするようなわざとらしい態度にも、当てこすりじみた賛辞にも、ためらわず笑顔で応じられる。
でもバリーに褒められるのはなぜか照れくさくて、ありがとうの一言がいえない。
いや、多分、とてつもなくうれしいのだ。彼がこんなに真面目な声で、まっすぐな言葉で私を認めてくれることが。

眠っているエコーの前脚を握り、鉤爪のささくれを見るふりをしてノーメイクの顔を隠した。うつむくと、サンドベージュのTシャツが視界に入る。いままですっかり忘れていたが昼間から着替えもしてない服は汗まみれの泥まみれでひどい有様だった。
バリーのピンク色のシャツもしわくちゃではあったけど、私よりはマシだ。

「なあいいか、おまえさんが自分で思ってる以上にみんなニーナを頼りにしてるんだからな。俺も含めて。どんな仕事も泣きごと言わずによくやってくれて感謝してる」

バリーはそこでいったん言葉を切った。驚くほど白いきれいな歯を見せてニヤッと笑い、また続ける。

「知らないだろ、あのデブっちょがニーナの指導は的確だって褒めてたの」

すぐにオーウェンのことだとわかった。思わず吹き出してしまい、するとバリーも声をあげて笑い出す。
厩舎の奥からブルーかデルタか、あるいはチャーリーのいらだった唸り声が聞こえてきたので、私はあわてて唇に人差し指をあてた。黒檀の肌をした共犯者が妙に真面目くさった顔をしてうなずくものだから、また腹筋がひくついたけど、なんとかこらえる。

「笑わせようとするのやめてってば。はやく元気になってくれたらいいね。エコーのことだけど」
「それなら心配ないだろ」
「それもそうか。エコーだもんね」
「エコーだからな。明日にはけろっとしてるさ」

まるで自分自身を勇気づけるような口調だった。三女のざらざらした肌を撫でるバリーの横顔にはいつもの誠実さと、やさしさと、繊細さが浮かんでいたが、彼だってこの数時間はずっと不安だったに違いない。
私もバリーの真似をして、エコーの背中に手のひらを置いた。ついでに傷口に軟膏を塗ってやる間にも、エコーは規則的な鼻息を発しながらおとなしく眠り続けている。

「こんなふうにちゃんと触らせてもらうのって久しぶり……今のうちにいっぱい触っとこ」
「明日エコーがこのこと覚えてたら追いかけ回されるだろうな」
「わかった明日は甲冑着てくるね。……あのさバリー」

勇敢なる女戦士の後ろ脚をがっちり拘束している革製バンドから目をあげて、バリーは私の視線を受け止めた。
するとほんの一瞬、例の気恥ずかしさが全身を駆け抜けたものの、彼のリラックスした態度を目の当たりにすると私の両肩からも自然と力が抜けた。

「さっき、褒めてくれてうれしかったから……明日も頑張る」

するとバリーは、思いがけずきつくなってしまった南部訛りをからかうこともなく、笑い飛ばすでもなくて、ただいつものように明るく、でもどこか照れくさそうに目を細めてくれた。

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