掌の上

庭で愛する犬たちと戯れていたトラッカーは、遠くから聞こえる騒がしい足音につられて顔を上げた。
アオイが駆け寄ってくる。なんだか知らないがひどく楽しそうで、右手に黒くて丸い形のなにかを持っている。
彼女の姿が数メートル先まで迫った時、トラッカーはその正体を理解した。
——ブラックのマスク。

「トラッカー! ヘイパース!」

しかもあろうことか、それが自分に向かって飛んでくるとは。

『えっ、ぅえええ!?』

トラッカーはおののいた。ある意味で手榴弾より地雷より恐ろしいものが、今、この手の中にあるのだから。

『にゃなっなんだよこれ! どどどどーすんだよ!』

慌てて顔をあげるもアオイはどこかに逃げおおせたあとだった。犬たちはボール遊びと勘違いしてはしゃぐばかりで役に立たないし、しかも気のせいでなければどこか遠くから殺気に満ちた咆哮が聞こえる。

『やべぇえええええ!』

いっそ捨てるか。フリスビーみたいに。遠くに……、いやダメだ、間違いなく犬が拾いに行く。
と、その時、彼の頭上をハヤブサがかすめていった。それもただのハヤブサではなく、体の半分が機械化している。
こいつがここにいると言うことは、だ。主人が近くに——いた!

『ふぁっファルコにゃっ、ファルコナー! パス! パス!』

平和ボケした日々においても、トラッカーのコントロールもファルコナーの反射神経も鈍ってはいなかった。
立ち止まったファルコナーは、不幸にも寸分たがわぬ正確さで特大の地雷を受け止めてしまったのだ。
一瞬の間。これはどういうことだと詰問しようにもすでにトラッカーの姿はなく、代わりに黒い巨体が自分に向かって猛スピードで迫ってくるのを認めた。

『……パス』

明らかにトラブルの種にしかならなそうなそれを、彼は騒ぎを聞きつけてやってきたハンゾーめがけて放り投げた。
重たいマスクは今度もきれいな放物線を描いて宙を舞い、グレーのスーツの両腕にすっぽり収まった。
ファルコナーには多少の罪悪感があったので、すぐにその場を逃げ出さず、しばらくハンゾーの目を見つめていた。
それは「早く逃げたほうがいい」という彼なりの忠告かもしれないし、無言の謝罪だったのかもしれない。
なんにせよハンゾーはすぐさま自分がとんでもない面倒ごとに巻き込まれたことを悟り、思案を巡らせる。はたして次の瞬間、彼の黒い瞳が“解決策”を認めた。
最良のいけにえとでも言うべき、そのひとの姿を。

「……クラシック!」

クラシックは昼寝をしていたところを騒がしい声に叩き起こされて、いらいらと外に出てきたところだった。
どうせトラッカーがはしゃいでいるか、そうでなければブラックが元凶に違いない。文句のひとつでも飛ばしてやらねば気がすまない、と。
ところが声をかけてきたのは予想外も予想外の相手。普段から度を越して無口な人間に、それも相当切羽詰まった声で呼び止められたものだから、彼は思わず驚いて立ち止まった。
自分に向かって飛んできた物の正体を理解した瞬間、彼はさらに驚くこととなる。

——なぜここに奴のマスクが?

しかし考える暇はなかった。全速力のブラックが放つ渾身のタックルが炸裂して、彼は優に10メートルも吹き飛んだからだ。


頭から怒りの湯気を噴き出しているブラックの前に並ばされた五人のうち、最初に口を開いたのは満身創痍のクラシックだった。
年長のプレデターは見るからに憤慨して、それこそブラックと同じくらい刺々しいオーラを発散している。
クラシックは「こいつに渡されただけだ」と、ハンゾーに顎をしゃくった。
が、そのハンゾーにも言い分がある。彼はわずかに目を細めると隣り合うプレデターにとがめるような視線を向けた。
無言の批難を受けたファルコナーが重々しく口を開く。

『……トラッカーが』
『ちちちちげーって! アオイが! アオイが!』
「えっと、ゴメンナサイ」
『貴様かぁあああ!』
「もうーごめんって! 吠えないでよ!」

ブラックの右腕がアオイの服の襟首を掴んで乱暴に立ち上がらせる。そのままがくがくと揺さぶられて、アオイは表情を歪めた。

「だってあんまり気持ちよさそうに爆睡してるからー」
『理由になるか、そんなもん!』
「もー、なに言ってるのかわかんないー」

ブラックのマスクがかすかに音を立てる。次に彼が口を開いたとき、その声は顫動音ではなく地球の言語に変化していた。

「言い分があるなら聞いてやる、最期にな」

よりによって寝ている間にマスクをはぎ取られたのだから当然ではあるが、ブラックの怒りは凄まじかった。彼をこれほど沸騰させたのは以前トラッカーが彼のファッションをダメ出ししたとき以来ではなかろうか。
あの日のトラッカーが危うく再起不能に陥りかけたことを思い出したハンゾーが腰を浮かせて制止の構えに入る。クラシックもそれにならって、いつでもブラックと対峙できる体勢をとった。
だがハンゾーは内心で訝っていた。アオイがこちらに目配せする視線にはどういうわけか悪巧みの色が滲んでいたからだ。
これは明らかに救いを求める顔ではない。むしろ余計な手出しをしないようにと暗に言っているように見える。

「その……」

アオイのちいさな手が、ブラックの腕にそっと添え置かれる。
そして恥じらうように目線を伏せたまま、彼女は言った。

「好きな子にいじわるしたい、みたいな。そんな感じ?」

瞬間、不自然なまでの沈黙が落ちた。
そんなばかばかしい手が通用するものかと、全員がそう思った。
明らかに怒り以外の理由から落ち着きを失ってたブラックが裏返った声でこう答えるまでは。

「……そ、そうか!」

狼狽からめちゃくちゃに喉を鳴らしているブラックに追い討ちをかけるように、アオイがいかにも気弱そうに瞳を潤ませる。

「ごめんね?」
「お、おう」

それだけ言うとブラックは急いで背中を向けて立ち去った。ぽんぽんと、慣れない手つきでアオイの頭まで撫でてやってから。
あまりのくだらなさと情けなさに真っ先に呻いたのはクラシックだったが、おそらく、その場の全員が同じ気持ちを抱えていることだろう。

「ブラックってちょろいから好き」

脱力する男共の中でひとり満足げにうなずくアオイの声は、遠ざかりゆくブラックにだけは聞こえていなかった。

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