欲しいものなら、何もかも

からっと乾いた熱い陽射しが、11月末の空から一直線に降り注ぐ。
海と森に囲まれたイーグルズ・ネストの夏は早い。オーストラリア西端に位置するこの町がもっとも活気づくのは1月から2月にかけてだが、初夏を迎えた今の時期から旅行客は多くなる。
そんななか私はと言えば、勤め先のサロンが二週間の改装休業となったのを利用して、早くも大勢の客で忙しいロック・ホテルにピンチヒッターとして駆けつけていた。

「グラス回収してきましたー」
「ありがとう。そこに置いておいて」

照りつける太陽まぶしい屋外からラウンジに戻ってくると、バーカウンターを掃除していたアリスの微笑みに出迎えられる。
アリスはこの小さなホテルの経営者であり、私とは三年来の付き合いだ。
カウンターには男が一人座っているだけで、退屈そうに携帯をいじる彼はちらりと顔をあげて、また伏せた。しきりに時間を気にしてるから待ち合わせか、もしくは恋人の支度が整うのを待っているんだろう。

「おつかれさま。そろそろ1時だから休んできて」
「いえいえ、このくらいまだ余裕ですよ」
「ダメよ、だって朝からずっとでしょ? 暑いんだし無理はしないで」
「確かにいくらなんでもこの気温はどうかと思いますけどね。おかげでメイクはほぼ落ちました」

カウンターの後ろでそんな会話をしていると、オフィスのドアが開いて、ジャックが出てきた。
アリスの夫でありこのホテルの持ち主でもある彼は、たった一人とはいえ目の前に客がいるというのに営業向けの顔ひとつしない。

「仕入れに行く」

無骨な手の中で車の鍵を鳴らしてみせるジャックの声はいかにもくたびれた風をしているが、部屋の中で酒を喰らう行為が労働の範疇に入るのかどうか、私はいつも疑問に思う。

「帰りは夕方になる」
「わかった」

目元を緊張させたアリスが頷く。二人の会話は年若い夫婦とは思えないほどそっけなく、関係ない私の胃が痛んだ。

「いってらっしゃーい。気をつけて!」

場を取りなそうという私の努力も無表情な瞳の一瞥で無に帰して、ジャックは外に出て行った。

「あの人って接客業向いてなさすぎじゃないですか?」

ジャックと入れ替わりに駆け込んできた女が待ちぼうけの男性客におまたせと笑いかけて、二人腕を組んで陽射しのもとへ出ていくのを見送ったあと、私は言った。
アリスは苦い表情を作っただけで、すぐにグラスを拭く作業に戻った。彼のことなんか話題にするのも嫌だって主張するみたいに。

「でもまあ、あれこれ口出しされないのは楽ですけど」
「ね、タバサ。私と二人の時はそれはやらないって約束。忘れちゃった?」
「それ?」
「敬語」
「あ、そっか。一回仕事モードになると抜けなくて……」

ふいに屋外から大きな歓声が上がって、私たちの会話は中断された。
大きく解放した両開きのガラスドアの向こうに集まった宿泊客とバーの利用者たちは、今日も大いに盛り上がっているらしい。
周囲の緑と水平線の青によく映えるよう白色を基調としたテラスはホテルの自慢で、今はお祭りみたいなカラフルな飾り付けのおかげでいつもよりもっともっと楽しげに見えた。
おとといの夜、私もセッティングを手伝った自信作だ。

どのテーブルにもところせましと並ぶのは軽食と酒。バカンスに浮かれた男女がそれらを潤滑油に新たな交遊を深めていて、グラス同士がぶつかる涼やかな音色や、喋り声や、記念撮影のシャッター音がひっきりなしに聞こえてくる。
見渡す顔は誰も彼も生き生きしていてとてもまぶしい……なのに、なぜだろう。こんな風に胸がどんより曇るのは。
急にその場にしゃがみこんだ私を、アリスはびっくり顔で見下ろした。

「タバサ? 大丈夫?」
「ちょっとこっちきて。しゃがんで」

外からは目が届かないカウンターの下の空間は薄暗くて、子供のころ作った秘密基地みたいで懐かしかった。
そのささやかな空間に身を潜めたまま手招きすれば、アリスは素直に腰を落として内緒話をするみたいに顔を近づけてくる。ワンピースの胸元からふっと汗の匂いがたちのぼった。

「タバサ?」

ピンク色の唇が私の名前を繰り返す。
その唇に不意討ちのキスをしたら、驚いたらしいアリスがバランスを崩してこちらに倒れかかってきた。
私はそれを支えきれずに尻餅をついてしまい、二人揃って小さな声をあげて、それから一瞬見つめあったあとやっぱり揃って笑った。

「頭ぶつけなかった?」

そう言って後頭部を撫でてくれる右手に力がこもる。なされるがまま引き寄せられる先には短いキスが待っていた。

「ごめんなさい」
「ううん、むしろこっちがごめん。アリス軽くてよかった……痩せたね、ちょっと」

人目を忍んで交わすバードキスはまるでじゃれつくようで、夜のそれとは感触も音も違ってる。浅すぎる角度にときどきぶつかる鼻先がもどかしかった。

「ここって……巣穴みたいね? 狭くて落ち着く」
「あはは、巣穴! ウォンバット的な? でもわかるよ、秘密基地っぽいよね」
「うん、そんな感じ。タバサはこういうところ見つけるのが上手ね」
「アリスと一緒にいられる場所を見つけるのが上手いの」

キスに応じながら下ろしていく手が柔らかな膨らみに触れた。力を入れるとくにゃりと歪んで、たちまちアリスの吐息は震えを帯びる。
それでも、彼女はわかっていた。今がまだ夜じゃないってことを。

「だめ……止まらなくなるから」

水仕事で荒れた人差し指が私をたしなめる。下唇から顎へ、そしてそのまま喉元を滑り落ちていく。だめ、なんて言っておいてこの仕打ちはひどくない?
我慢してるのは私だって同じなのにね。


それらしい理由を考え出すまでもなく、突然崩れた天候によって今夜はアリスの部屋に転がり込めることになり、私は風呂上がりの体をぱりっと糊のきいたシーツの上に転がって冷ましていた。

「寝ないの?」

てっきりすぐに来てくれると思ってたのにアリスはさっきから難しい顔をしてキーボードを叩いていて、それはまだ終わりそうにない。
椅子を回してこちらを振り向く顔がノートパソコンの白い光に照らされて頼りなげに見える。疲れてるのか困っているのか、その両方なのかもしれない。

「これだけ今夜中にやっておかないと。先に寝てていいから」
「んーん……まだ起きてる」
「イヤホンつけたまま寝ないで」
「起きてるってばー」

赤色のカーテンの向こう側ではまだ雷雨の気配がしている。容赦ないその音とアリスの華奢な背中の対比がなぜか私を悲しい気持ちにさせるから、ついつい音楽のボリュームを引き上げた。
不安も疲れもハードロックでごまかしてしまうのが一番だ。大抵の人はおかしいって言うけど、私にとってこれは癒し。波の音や小鳥のさえずりやピアノの調べなんかよりも、ずっとずっとリラックスできる。
ふう、と心地よいため息がこぼれ落ちる。まだ寝るつもりはないけど、まばたきが一秒ごとに重くなる。
寝るつもりはないけど——

マットレスが沈む感覚で目が覚めた。耳の中で鳴っていた激しいドラムの音が取り除かれて、代わりにささやき声が鼓膜を揺する。

「タバサ」
「ん……寝てない……」

アリスの匂い。アリスの声。アリスの温度が重なってくる。開けようとしたまぶたにキスされて、くすぐったさに声が漏れた。

「雷……止んだ?」
「うん、もう大丈夫みたい。疲れちゃった? 寝るなら明かり消そうか」

そんな顔されて『うん』なんて答えられる人、この世にいないと思う。そんな潤んだ目で見たりして。やめてよ、私がどれだけあなたを欲しいか思い知らされるから。

「もったいないからまだ寝ない」

そう答えたらアリスはよっぽど嬉しかったみたいで、ふにゃっと眉尻が下がった。
この一瞬だけ、アリスは何も心配なんかしてないし怖がっても悲しんでもいなかった。
本当のアリスが、私の大好きな明るくて優しいアリスが戻ってきて、私の目の前にいる。
もっとずっと見つめてたいけど次々にキスの雨が降るからじっとなんかしてられない。唇にも、耳にも、汗ばんだ手のひらにも指の爪にも降り注ぐ。

「あ……」
「あったかい手」

唇に舞い戻ったキスは、もうじゃれつくような遊びのそれではなかった。長くて深くて、苦しくなるまで求めて求められた。
それに、とても熱かった。自分が残した温もりを確かめるように唇を撫でてくるアリスの指がひんやりとして感じるくらいに。

「タバサの唇が好き。柔らかくて可愛くて」
「そう? 私はアリスの方がきれいな形で羨ましいけどな……」
「愛してる」
「そんなピンポイントな部位だけ?」
「違うわ、全部……ぜんぶ」

甘えた声に胸が詰まる。その胸にアリスの手が触れて、この夜も夏もまだ始まったばかりなのだと私に教えてくれた。

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    アリス殺し屋チャーリーと6人の悪党
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