ショコラ・アディクト

暑くもなく、寒くもない、ただただ無風の夜のこと。
暗く深いベルベットの夜空にはひとつの星も瞬かず、真っ赤な三日月だけが怪物の大きな口のようにぽっかりと浮かんでいた。
その月の下、街灯のないまっすぐな道の真ん中に、一人の少女が立ち尽くしている。
まるで見覚えのない景色に心細さをおぼえた彼女の、落ち着きのない視線が真っ暗闇の中をきょろきょろとさまよう。
何も見えず、何も聞こえず、やはり風のひとつも吹かず……少女は背後を振り返ると、さきほどと同じように目を細めた。
道はどこまでもどこまでも続いている。多分、果てもなく。自分はどこへも行けない。
彼女が苛だたしい思いで血の月を見上げた、その時。

——コツン。

混じり気のない暗闇の中から、小さな音が聞こえた。

——コツ、コツ。

またしてもコンクリートが一定のリズムを刻む。
霊廟もかくやというほど静まり返った夜道にやたらと響く音は次第に鮮明さを増しつつあり、誰かが近づいてきていることを少女に知らせた。……いや、“誰か”ではない。足音の主は考えるまでもなかった。
コツ、コツ、コツ。一歩、また一歩。赤い月明かりの下に、黒光りするブーツがぬっと現れた。
そして、低く濁った声。

「俺様の悪夢へようこそ、アオイ!」
「うー……もうっほんといい加減にしてよぉ」

演技がかった仕種で両腕を広げてみせる男——フレディ・クルーガーとは対照的に、アオイは心底疲労した様子で頭を抱えた。
赤と緑の縞模様のセーターを睨みつけ、「私は普通に寝たいだけなんだってば」と刺々しく食いかかる。

「いま眠っているだろう? だからこうして夢を見ているんだ」
「屁理屈は……っていうか正論だけどさぁ。寝た気がしないなら寝てないのと変わらなくない? あとこの場所すごく嫌なの。暗い。最悪。チョイスが最悪」
「やれやれ、わがままなお姫様だ」

夢魔が鉄の爪を一振りしただけで、不気味な夜道もニヤニヤ笑いの月も、嘘のように消え失せた。
代わりに現れたのはどこかの民家の一室だ。淡いクリーム色の壁紙と磨き上げられたフローリングが程よい明かりの中で完璧に調和していて、大きな窓にはモダンなカーテンが揺れている。
二人掛けの白いソファーにどっかりと腰を下ろした男が言った。

「これで満足か? ほら、こっちへおいで。パパがいいものをあげよう」
「やめてよね、そういうの。そんなので釣られると思う? いいからどっか行って」
「随分と冷たいな。楽しみたくないか? ん?」
「イ、ヤ!」

壁際に張り付いたままつんと横を向いてしまったアオイの横顔は、フレディに高飛車な猫を思い起こさせた。
ふむ、確かに猫をしつけるのは難しい。だが手なずけることなら……。

「ならこれはどうだ、欲しくないか?」

そう言うと、彼は何もない空間から手品のように小さな長方形の箱を取り出してみせた。
チェシャ猫のような笑みを顔面にはりつけたフレディはアオイの瞳に驚きが浮かんだのを見逃しはしなかったし、その表情の理由だって知っていた。
彼は内心で勝ち誇って顎を上げる。アオイにはダマスク模様の箱と金色で箔押しされた文字によくよく見覚えがあるはずだ。」これは彼女が一番好きなチョコレートブランドのパッケージなのだから。

「なんで私の好きなもの——」

アオイはフレディが予想した通りの疑問を口にしかけたが、言葉は尻すぼみになって消えた。ここが他ならぬ彼の世界であることを、やっと思い出したらしい。

「お前のことならなんでも知ってるさ」
「うー……じゃあちょっと、ちょっとだけなら付き合ってもいい、けど」

歯切れの悪い答え。だがすでに勝負はついている。
声はいかにも悔しそうで足取りも重たいが、それでものろのろとこちらに歩み寄ってくるアオイを両腕を広げて迎え入れてやりながら、フレディはますます口端をつり上げた。
ほれみろ、子供も猫もおんなじだ。

「ココのいいところは味覚がちゃんと機能してるとこだよね! あと食べても太らないとこ」

ころりと態度をひるがえしたアオイの髪を、フレディはようやく撫でることができた。
いつもなら払いのけられるか逃げられるかする場面だが、餌付けが成功した今夜は腕を掴むのも肩を引き寄せるのも彼の思うがままだ。

「気に入ったならずっと居てもいいんだぞ。なんなら俺が手伝ってやろう」
「いまさりげなく殺人を予告された気がする」
「嫌か?」
「……近いんですけどぉ」

鼻先が触れ合いそうなほど間近に迫った焼けただれた顔をぐいぐい押し返しつつ、アオイはもう片方の手でつまんだチョコレートを口の中に放り込む。

「普通にやだー。いや、別にあなたが嫌なんじゃないけど。たまに会うくらいのほうが嬉しいし……」

それからはっとしたように口をつぐみ、「私なに言ってんだろう」と頬を赤らめる。

「そうか、それは残念だな」

夢魔は残念さのかけらも感じさせない声でくつくつと笑った。
手袋を着けた右手をさりげなくアオイの背に回すと、ナイフの鉤爪でしなやかな腰をなで下ろし、スカートの裾を捲り上げ、そして柔らかな太腿を引っ掻く。

「わっ、ちょっとやめて、どこ触ってんの!」
「んー? 聞こえないな」
「じゃあ耳元で思いっきり叫んだら聞こえるようになる?」

その好戦的な瞳はまさに猫。非力なくせに必死に抵抗する腕も、かたくなに閉じた脚も、根拠のない自信に満ちあふれた目つきも、フレディにとってはすべてが魅惑的で、加虐心を煽られた。
ぞくぞくと背中を駆け上がるものを感じつつ、彼は少女の横顔に口元を寄せた。

「そんな悪い子にご褒美はやれないな」

女の膝から甘い香りのする箱をひょいと取り上げる。案の定アオイが非難の声を上げはじめたが、それすらも今となっては心地好いBGMに過ぎない。

「シーッ……。さあお嬢さん、いい子にしていられるか?」

もう一度細い腰に手のひらを這わせるとアオイはぴくりと体を震わせたものの、どこかぼんやりとした瞳で夢魔を見つめ返すだけで、逃げ出そうとはしなかった。
フレディは箱からチョコレートを一粒摘まみ上げてアオイの舌に乗せてやってから、さもたった今思い出したかのように「……ああ、そうだ。知ってるか」と囁いた。
力強い腕がアオイの体を有無も言わさず抱き寄せる。

「チョコレートには媚薬の効果があるんだ」

そして、赤い三日月のような口が笑った。

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