Sholom

急を要する事件も任務もない解放感に満ちた朝。
オフィスに到着したエレベーターにいち早く気づいたのは、トニーだった。
ドアが開いた瞬間その目がきらりと輝いた理由は、降りてきたのが若い女性だったからに他ならない。
年の頃は二十代半ばから後半、背は高すぎず低すぎずで、丈の短いコートとマフラーにまとわせた冷気で今朝の冷え込みがいかに厳しいものであるかを教えてくれている。
頬と鼻先を赤く染めた顔にはまるで見覚えがなかった。だが、それが声をかけてはいけない理由にはならないはずだ。
今までだらけきっていたのが嘘のように急に覇気を取り戻したトニーは、すぐさまデスクに放り出してあった成人雑誌を引き出しに突っ込んで隠すと、ロイヤルブルーのネクタイを整えた。
引き出しが閉まる音に振り向いた彼女に向けるのはもちろん、とっておきの笑顔だ。

「やあ、なにか困ってる? 助けになれることはあるかな」
「どうだろう」

女が疑わしげに応じる。しきりにあたりを見回しているから尋ね人があるらしい。

「なるほど。で、誰なんだい? その幸運な相手は? 名前は? ここの階? よかったら案内してあげようか」
「あなた、トニー・ディノッゾでしょ?」

好意的な微笑みを向けられて浮き足だったのもつかの間。いきなり名前を言い当てられて、トニーの上機嫌はたちまち凍りついた。
何もかも見透かしたように胸を張る女とたじろぐ男、今や二人の表情はまったくの対照を描いている。

「ごめん、どこかで会ったかな。もしかして三丁目のクラブ……」
「初対面だしあなたと寝たこともないから安心してね。で、わたしのハニーはどこかしら」
「は、ハニー?」
「ここよ。おはよう」

答えたのはグレーのベレー帽を被ったジヴァだった。
いつもより早い出勤ということもあってか悠々とした足取りの彼女は驚き半分、歓迎半分で客人に近づくと当たり前のようにハグを交わした。

「ん、ジヴァ冷たい……窓開けて運転したの?」
「なんでここに? わざわざ会いに来るなんてよっぽど寂しかった?」
「超! 心細かったよー、なんせ愛車に乗れないんだもん。さ、ほら鍵出して。自分のと一緒に持って帰っちゃったでしょ」
「返しに行こうと思ってたのに。今夜」

ジヴァの手が自分のバッグのポケットに消え、バイクの鍵を握って再び現れた。マフラーの女は受け取ったそれを手の中でチャラチャラ鳴らして遊ぶ。

「それじゃ間に合わないんですー。今日メンテに出すんだから」
「私をドライブに連れてってくれるために? 行き先は前もって教えといて、サプライズは嫌いなんだ」
「それじゃ夜景の素敵なレストランにしよっか。ジヴァがおごってくれるなんて楽しみー」

ジヴァの両肩に手を置く女がつま先立って顔を近づけて誘惑の真似事をすると、ジヴァもまんざらではなさそうに相手の腰を抱き寄せることでそれに応える。
ぽんぽんと交わされる軽口の応酬には明らかに手慣れたものがあり、二人の親密さがうかがえた。
そしてもちろん、トニーがそれに気づかないわけもなく。

「ははーん」

存在を忘れられかけていた彼は気味の悪い笑い声をたてることで注目を奪い返した。
喜色満面で一人うなずく彼を、四つの瞳がいぶかしげに見つめ返す。

「そうか、そういうことなんだな? ジヴァー僕は応援するぞー?」
「この人何言ってるの」
「ほっといていいよ。まあ私は嫌じゃないけど、メリナだったら」
「ふふふ、私と付き合いたければまず192センチ90キロの我が彼氏を倒してからにするがいい……あいつまたデブったんだよ、ジヴァからも叱ってよ」
「うちのトレーニングメニュー一式を体験させるとか」
「むしろサンドバッグへの転生を勧めたい」
「あーちょっと? そこのお二人?」

またしても蚊帳の外に置かれそうになったトニーが慌てて話の舵を取り直す。

「お取り込み中のところ悪いけど、どういう関係か解答はなし?」

するとジヴァと女が顔を見合わせ、意味深な笑みが双方の口許に浮かんだ。

「教えちゃってもいい?」
「今日はやめとこう」
「わかった」

じゃあ自己紹介だけねと女が右手をトニーに差し出して、信じがたいことを口にした。

「ATF調査官のメリナです。でも今日はプライベートなのでNCISさんの邪魔をしにきたわけでも共同捜査のお願いに来たわけでもないし、スパイでもないです。どうぞよろしく」
「はっはー! なるほど!」

寒さでかじかんだ右手をがっちり握り返したまま、トニーは白い歯を見せて大声で笑った。
ATFだって? こんな大胆な嘘で人をかつごうとするあたり、さすがはジヴァの友人だ。
騙せなくて残念だったなとでも言いたげな視線を同僚へと投げかけてから、またメリナの顔を見る。
だがどちらの女も笑みを返してはくれなかったし、発言の訂正もしなかった。急に自信を失ったトニーの右手から力が抜けた。

「……司法省のあのATF?」
「オートマチック・トランスミッション・フルードの略だと思った?」

ジヴァがすかさずまぜっかえす。そのジョークを喜んだのはメリナだけだった。

「残念ながらアルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局のATFです。改めてよろしく、トニー。それよりここって……うちのオフィスと全然違うね、やっぱり」

メリナがきょろきょろと興味深げに部屋を見回す。思わぬ正体にたじろぎはしたものの、謎多き客人をまだ諦めきれないトニーの目にはそれは格好のチャンスと映った。
咳払いをひとつ、そして再び例の笑顔を浮かべる。

「じゃあ今から僕と——」
「ツアーにいく? 検死室込みのフルコースで」

今まさに言わんとしていたセリフは、あっけなくジヴァに横から奪われた。
勝ち誇った態度を隠そうともしないジヴァがダンスのエスコートでもするようにメリナの腕を引き寄せる。その美しい顔に、意地悪な笑みを浮かべながら。

「せっかく来たんだから私の仕事を見学していきなよ」
「でもずっと立ってるなんて嫌よ?」
「トニーの席が空いてる」
「空いてるわけないだろ」

素早く突っ込みを入れたあと、トニーは慌てて優しく付け足した。

「もちろん君が座りたいならいつでもいいよ。僕は他から椅子を借りてくるから」
「……やっぱやめとこう。私の膝に座ったら。ねえメリナ」
「えー、いいの? そんな特等席に招待してもらっちゃって」

メリナが笑い声をあげる。ジヴァの腰に抱きつくと、子が親に甘えるかのごとく肩口に頬を押し当てたが、そんな自分がおかしくなったのかまた笑った。

「いちゃつくな」

突然割り入ってきた新たな声に、メリナ以外の二人が肩を跳ね上げた。
唇を引き結ぶのも姿勢を正すのも、飼い主を前にした牧羊犬がそうするのと同じで、ほとんど条件反射のようなものだ。
湯気のたつ紙カップを持ったギブスは通りすぎさまジヴァとトニーを——とりわけジヴァを長く睨み付けた。

「そちらの客人をお見送りしてさっさと仕事にかかれ、“ハニー”」

三人同時に顔を見合わせる。最初に口を開いたのはメリナだった。

「ねージヴァ、あの人いつから……っていうかどうやって聞いてたの?」
「それは、」
「僕らにも謎なんだ」

今度はトニーがジヴァのセリフを横取りした。

「永遠にね」

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