不調の助手とともだち

静かな研究室に、空咳の音は妙に大きく響いた。
どうも数日前から喉の調子がおかしい。しばらく寝不足の日が続いているせいか、それとも単に水分を摂るのを怠ったせいかもしれない。
また咳が、今度は先ほどよりも長く続いた。
水を取りに行こうと立ち上がったとき、上司であるゲディマン博士がこちらを見て怪訝に眉をひそめていることに気がついた。

「君、具合でも悪いのか?」
「平気です」

私はそう答えたが、それが反射的な強がりにすぎないことは自分でもわかっていた。
案の定、それから数時間が経つころには私の喉はぜいぜいとおかしな音を立てるようになり、有無を言わさず医務室に放り込まれた。
幸いなことにてきぱきと診察が進められ、そして不幸なことに流行りの疾病であることがわかった。
罹患しても命に関わることはなく、ほとんどは短期間で後遺症もなく完治するが、気管支の腫れによる喘息様の症状から始まり、全身の倦怠感と吐き気、手足の一時的な痺れなどが続く数日間はおとなしく寝ているしかできない厄介な病気だ。
また、人から人への感染の可能性もあると言うことで、医者からこっぴどく叱られてしまった。
注射された薬で頭がぼんやりしていたせいで何を言われたのかはほとんど覚えていない。まあ、多分、クビにはなっていないはずだ。

ともかく私の処遇は5日間の隔離入院ということになった。
あてがわれた部屋は狭いうえに殺風景で、消毒液の匂いが充満していて、やや暑かった(これから二日間ほど体温が下がるからだと説明された)。
ひとりでいることは怖くない。
たとえ、粗末なテーブルとベッドとインターコムしかない場所に閉じ込められるとしても。
ただ仕事ができないことが寂しかった。まるで、まるで……そう、自分が空っぽになったように思えて。

隣り合うバスルームから物音がして、眠ろうとしていた私はしぶしぶ枕から頭を持ち上げた。
するとそこには、ドアのない出入り口から身体を半分だけ覗かせるゼノモーフがいるではないか。
小柄なニューウォーリアーと私の目が合う。彼女らに眼球はないからこの表現は間違っているかもしれないが、ともかく互いが互いを視認したのは確かだ。

「エリザ?」

嬉しそうに尻尾をくねらせて駆け寄ってくる姿のなんて愛しいこと!
この船に乗っているゼノモーフたちは3匹を1グループのまとまりとして専用のケージまたは部屋に入ってもらい生活させているが、特別研究対象のこの子にだけはある程度の自由行動を与えている。
もちろん厳しいルールも課しており、必ず研究員の目の届く範囲にいること、研究室以外の場所にひとりで出歩かないこと、特に私のそばから離れないことをきつく言い付けてある……だけどまさか、こんなところにまで。
隔離された病室にどうやって忍び込んだのか、それとも最初から潜んでいたのか。
しかし、考えてもわからないことにシナプスの活動を費やすのはやめた。

「そんなところでどうしたの? よかったらこっちに来る?」

喘鳴のせいでうまく喋れない私の声は奇妙だったに違いないが、友人は特に気にする様子もなくベッドに飛び乗ってきた。
ありがたいことに、ベッドはゼノモーフの重みに耐えた。彼女はシーツの中に潜り込んでしばらくごそごそしていたが、やがて快適な体勢を見つけて落ち着いた。
彼女の細長い頭を胸に抱くと、ギュルギュルと断続的に喉が鳴り、その振動が私の体内に染み入るように伝わってくる。
呼吸の速度は私のものとほぼ同じ、ゆったりとしたリズムを刻んでいる。
もっとも、私の音程は筋張った腕が腰に巻き付いてきた時点であっけなく不協和音に変わってしまったのだけど。
それはこの子の手の感触がささやかな秘密を思い出させてくるせいだ——別のニューウォーリアーと性行為に及んでしまったあの日の出来事を。
急に寒気を感じてエリザを抱きしめる腕に力を込めると、ゴロゴロ音はさらに大きくなって、でも彼女はそれ以上何をするでもなくおとなしくまどろみに身を委ねている。

「……かわいいね」

怖いのはゼノモーフ自体がではない。
私の背骨を撫でた恐怖の源流は、この子に嫌われたくない、軽蔑されたくないという不安に由縁したものだ。
そんなくだらない保身に今さら怯えるなんて自分でも呆れてしまうし、そもそもゼノモーフの倫理観がどうなってるのかなんて全くわからないけど。

「ね、ずっと大好きよ」

子供の熱を測るみたいにエリザの額に手を添える。つるりとしているがプラスチックのような乾いた硬質さではなく、ほんのわずかに弾性があって生き物らしい手触りだ。
黙ったままそこに頬を押し付けていると、たちまち自分の空虚が満たされて、かわりに平穏があまねく広がっていくのを感じられた。
結局のところ、私の中にあるのはこの子たちへの愛なのだ。それがどのような意味合いであるとしても。
そんな自分に少しだけ呆れて、そして大部分は安堵した。なぜかははっきりとはわからない……ただ、彼女らのことを心から愛しているという事実は私に勇気を与え、理由を与え、存在価値を与えてくれるような気がした。
再び眠くなってきた私は、意識が現実と夢の狭間を漂うのに任せた。

「医者に……見つかったら……叱られるだろうね」

喉を通り抜ける笑いも言葉もきちんと声になっていたかはわからないが、少なくともエリザは返事をしてくれた。
秘密を共有する者同士のささやきのような、私への励ましのような……でも眠たそうで、ちょっとめんどくさそうでもある複雑な鳴き声は、掠れた私の声よりもある意味では奇妙だった。

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