未熟

ごめんなさいナンシー、いまから仕事に行かないと。グウェン・ホルブルックは部屋に入ってくるなりそう告げた。
それは彼女にとってまったく予期せぬ出勤要請だったとみえて、黒ぶち眼鏡の奥の瞳が心情をありありと映し出している。
さっきから下の階で忙しなく動き回る気配がしていたのは、大急ぎで荷物をまとめていたからだったらしい。

「あさっての昼には戻るから」
「わかった」

ナンシーはうなずいたものの、その態度は素っ気ない。視線はほんのいっとき母親を見ただけで、すぐに手元のスケッチブックに引き戻された。

「泊まってもらえないかしら。クリスか誰か。お友達に」
「うん。そうね」

顔を上げず、黒い色鉛筆を動かす手も止めずに応じる。本当ならこう言ってやりたいところだ——ママ、それって本気で言ってるの? たった二日間のために?
だが母親の心配性は今にはじまったことではない。何を言っても無駄な時は無駄だと娘は知っていた。
グウェンが部屋を出ていったあと、ベッドにあぐらをかいたナンシーは手に持った携帯電話を見つめていた。
体が所在なさげに揺れている。彼女はしばらくのあいだ、マニキュアと同じ暗い赤色をしたその小さな機械の角をそっとなぞってみたり、液晶の汚れを袖口で拭ってみたりしていたが、やがて決意してアドレス帳を開くとそこに並んだ決して数多くはない名前の中からひとつを選び出し、通話ボタンを押した。
単調なコールが、耳に押し当てた電話の小さな穴の奥から聞こえてくる。ぷつり。呼び出し音が途絶えた。

「あ、……私。ナンシーだけど」


「嬉しい!」

部屋に入るなりそう言って瞳を輝かせたのは、クリスではなくニーナだった。
ニーナはナンシーと同じ歳で、背の高さも同じくらい、髪の色も似ていて——ただし、目の色はグリーンではなくブラウン——そしてナンシーと同じくらいに音楽と芸術を愛する少女である。

「何が?」

ナンシーがそう尋ねると、ニーナの相変わらずきらきらした瞳がこちらを見返す。

「そりゃ……ナンシーの部屋で寝られるのがだよ。わーベッドおっきーい!」
「ここで寝るつもり?」

そう訊いてはみたものの、味気ない客室にニーナを追いたてるつもりがないことはナンシー自身が一番よくわかっている。
だが勝手にベッドに寝転がって、幸せそうにしているニーナを見るとどうしても思い出してしまうのだ——ほんの二週間前、何のはずみか唇を重ねてしまったあの一瞬の出来事を。

それはグウェンの青い車の運転席と助手席で、何気ないいつもの会話を交わした夜のことだった。

「送ってくれてありがとう、ナンシー」
「うん」
「じゃあまた明日、2限目にね」
「わかった」

満ち足りた無言の数秒間が過ぎ、車内の電子時計が8時半を告げたとき、ふたりはどちらからともなく身を乗り出してぬくもりを分かち合った。
それはまどろみの狭間に揺れ動く脆い記憶のようであり、暁の薄明にただよう幻のようであり、もしくは悪魔のいたずらが為せる技のようだった。
ふと魔法が解けたときふたりは揃って驚きに目を丸くし、気まずさに唾を呑んだものだ。

だけど、名残惜しさを感じていたのは私ひとりだけだったのかもしれない……ナンシーはそう考えた。
あのたった一度だけのキスは何かの間違いで、ニーナは自分のことなんてまるで意識していないのではないか。そんな冷たい思いに胃がずしんと重くなり、掌に爪の跡がつくまで両手を握り締めた。


色鉛筆で薄く色づけたような闇のなか、ニーナは仰向けになり胸に両手を置いて、ナンシーは相手に背中を向ける格好で横向きに丸くなってそれぞれ目を閉じ、だが少なくともナンシーはまだ眠れずにいた。
もやもやとした圧迫感を発散させるすべも見つからないまま迎えた夜。
カーテンに隙間を作った部屋は明るすぎず重苦しくもないほどよい暗さで眠りには最適のはずが、意識はまだ明瞭な感覚を保ったまま一向に溶けてくれそうにない。
ずっと同じ体勢をしているせいで体の下になっている側が痛いし、ついさっき降りはじめたばかりの雨が屋根を叩く、そのどこか煮えきらないリズムがやたらと耳につくから余計にピリピリしてしまう。
身じろぎすらせず横たわる心の内で、ぼやけた思いだけがとりとめもなく立ちのぼっては霧散する。
するといままで規則正しい寝息を立てていたニーナが寝返りを打つのを背中越しに感じて、ナンシーははっと目を開けた。
ニーナのぬくもりが間近に迫る。うなじに吐息が吹きかかる。
とっさに振り向きそうになるのを押し留め、ナンシーは自分の呼吸のリズムだけに集中しようと試みた。だがそうすればするほどに余計に何もかもがちぐはぐして、しまいには根っこから崩れていくような気がした。
掛け布団がわずかに持ち上がったかと思うと、伸びてきた腕がナンシーの肩に触り、腕を伝い降り、そしてその先にある手のひらを探り当てた。
するり、と絡みついてくるニーナの指。手のひらの柔らかい場所から指のあいだの薄い皮膚、それから短い爪のその根元まで、確かめるようにひとつひとつ触れていく。
もうこれ以上熱くなりようもない顔がカッと燃えて、つま先まで一気に広がるのがナンシーにはわかった。
あんなに耳障りだった雨音も、今はもう聞こえない。荒れ狂う川のような血流がこの世のすべての音を押し流したから。もうそれしか聞こえなかった。
だから「ナンシー」と名を呼ぶ声もきっとただの思い過ごし、勘違いにちがいない。
相手に気づかれないように、少女はゆっくり慎重に息を吐いた。
夜の魔法にかけられたとして、離れていく指を握り返せるほどの大人には、まだなれそうもなかった。

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    エルム街の悪夢ナンシー
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