愛し子たちの祈り

「え、辞める? すぐ? ほんとに?」

まさに寝耳に水。そして意気消沈。
私が指導していた調教師が今月末で辞職するのだとバリーから告げられて、デスクに突っ伏したくなった。
なぜならここを辞めていく同僚は今期に入ってもう3人目だからだ。先のふたりはラプトルに襲われそうになったことで、怖気づいて逃げ出した。今回の彼もどうせ同じだ。
おかげで従業員募集の広告はまだまだ下げられそうにない。

「だってあの人このあいだ入ってきたばかりじゃない」
「急に言われても困るよな」

言葉とは裏腹にバリーに焦ったところはなく、いつものようにのんびりと腕を組んで笑っている。心が広いと言うべきかのんきと言うべきなのか、人手が足りなければ困るのは彼も同じのはずなのに。
人員補充には二週間ほどかかる見込みだと言い置いて、バリーは部屋を出て行った。

それから数時間が経ったころ、苦手な書類仕事で溶けかけている私をオーウェンが呼びにきた。
手伝ってくれるのかと期待したが、それは後にして外に出てみろという言葉でそうではないとわかった。
赤道にほど近いヌブラル島は日没が早い。時刻は午後5時半だが、外はすっかり真夜中の暗さになっていた。
だけど私を驚かせたのはそんなおなじみの景色ではなくて、スタッフ総出でバーベキューの準備が進められていたことだ。

「えー? あはは、なにこれ」
「祝賀パーティだかなんだか」
「なんのお祝い? 誰かの誕生日?」

オーウェンのたくましい肩が「さぁな」とでも言いたげにすくめられる。彼もなにも聞かされていないらしい。
というか理由らしい理由なんて初めからなくって、ちょっとしたきっかけにかこつけてみんなで騒ぎたいだけなんだろう。
だから私は勝手に、これをラプトルたちの少し遅い生誕二周年記念だと思うことにした。

近くを通りかかった男性職員が私に気づいて軽く手を挙げ合図する。彼にとってはちょうどいい送別会代わりになるだろう……そんなことを考えながら私も同じように右手で挨拶を返した。
私より一つ年下で、ひょろりと背が高く少し猫背気味のロンはビニール袋いっぱいの木炭を苦労して運んでいるところだった。

「ロン。今日は遅いシフトだったのね。こんなことして叱られないのかな」
「あ、でも社長来てるんで」
「え? あっほんとだなんかグリル運んでる!」

信じられないが見間違いではなかった。たしかにあそこにいるのはマスラニ社長だ。
あんな重たいものを同時に二つも引きずっているのは旺盛なチャレンジ精神の現れなのか、それとも無謀なだけか……。
手助けしようと足を踏み出しかけたけど、オーウェンの方が早く駆けつけてくれたのであちらは彼に任せることにした。

「よかったらそれ半分持つけど」
「いや、あっちに置いてくるだけなんで大丈夫です。ミス・スミス、戻ったら少しだけお時間いいですか?」
「どうぞ。ちょっと檻に行きたいから、そこでよければ」
「それじゃあ、あとで……」

“檻”とはアリーナに隣接しているガレージほどの大きさの、鉄格子でできたバックヤードスペースのことだ。見た目が大型獣のケージに似ているので、みんな檻と呼んでいる。
アリーナに通じる電子シャッターにはもちろんロックがかかっていて、私はそこに張り付くと、人工の森に目をこらした。
いつもならこの時間には厩舎に戻されているはずのラプトルたちは、まだアリーナで遊ぶことを許されているらしいから、今も森のどこかに身を潜めているはずなのだ。

「ブルー! ブルーちゃん!」

返事なんて期待してなかったが、意外にも暗闇に獣の声がとどろいた。この声は残念ながらブルーではないみたいだけど。

「チャーリー? こっちだよー、おーいで!」

茂みをがさがさかき分ける音と、うなり声だけが風に乗って聞こえてくる。
頭上のキャットウォークに設置されたスタンドライトによって、アリーナ内部にはところどころ灯りが投げかけられているものの、大半は夜の色に溶け込んでしまっていて、4姉妹がそれぞれどこに潜んでいるのか肉眼では捉えられない。

「デルタ、エコー?」

左奥の下生えが、風向きに逆らって不自然に揺れるのを私の目は見逃さなかった。
そして、そちらに体を向けた時だった。草の間からラプトルが飛び出してきて一目散に突進してきたのは。
そのスピードはあまりに速くて、エコーはあっという間に私の目の前までやってきた。最高時速80キロは伊達じゃない。
エコーの脚が鉄格子ぎりぎりのところでブレーキをかけて砂ぼこりを巻き上げる。さすが姉妹の中でも運動神経のいい子だ、顔をぶつけたらどうしようかなんて心配は最初から無用だったらしい。

「いいねー今日も元気で。いい子だね。ずっと隠れてたの?」

私が悲鳴の一つもあげないのが面白くないのだろう、むき出した牙をガチガチ嚙み鳴らして威嚇する顔はいかにも機嫌が悪い。
恐竜がこんなに感情と表情豊かな生物だったなんて、ここで働くまで想像もしていなかった。

「エコーちゃんお腹すいてる? あとでお肉持ってきてあげようか? でもオーウェンに見つからなかったらだけど」

尾を高く持ち上げて獲物に飛びかかる寸前の姿勢を保ったエコーは「ギャッギャッ」という甲高い鳴き声をあげると私に噛み付く真似をした。
上下の牙が噛み合わさる音は力強く、人間の腕くらいなら一撃で喰いちぎってしまえそうだ。
彼女はしばらくのあいだ、その器用な前脚で鉄柵をガリガリ引っかいていたが、やがて諦めてきびすを返すと再び暗闇に溶けて消えてしまった。

「さっきの、」

いきなり背後から声をかけられて、今度こそ飛び上がりそうになった。
急いで振り返ったが、慌てるあまりバランスを崩してよろけてしまい、鉄柵の冷たさが背中いっぱいに広がる。

「怖くなかったんですか?」
「今の方が心臓バクバクいってるよ……」
「すみません。脅かすつもりは。でもすごいですね、彼女らに慣れてるというか。俺は……全然だ」

ロンが曖昧に目を細めながら言う。彼は入ってきた当初からラプトルを怖がっていた。
今も鉄柵越しの森にほんのひととき怯えたような視線を走らせただけで、もうそれきりそちらを見ようともしなくて、それが私を妙にイラつかせた。
正直なところ、私は彼を気に入っていた。
特別な感情ってやつじゃなく、彼には調教師としての素質を感じていたから。
少し繊細すぎるところはあるが、知識の深さと飲み込みの早さは誰より抜きんでていたので、じっくり時間をかけて恐怖心を取り除くことができれば、私以上にラプトルたちといい関係を築けたかもしれない。
それなのに、ちょっとエコーに噛まれそうになったくらいで逃げ出そうとするなんて。あの子はああいう性格だからって最初にさんざん言い含めておいたはずなのに。

「あの、短い間でしたがお世話になりました。いろいろ教えていただいて……」
「いいの。それが仕事だから」

私の声は我ながらそっけなかった。だけどロンは気にする様子もなく、それどころか優しい笑顔ではにかんだ。

「じつは急に妻の妊娠がわかって、あいつがあんまり心配するもんだから」
「あ……」

知らなかった。奥さんいたんだ。
思えば私は何も知らない。彼の家族、仕事場以外の親しい友人、趣味、休日の過ごし方。何も知らなかったし、知る努力さえしていなかった。
一体、私は彼を“何”だと思っていたのだろう。
急に自分が恥ずかしくなってごめんねと謝ったけど、ロンは不思議そうな表情を浮かべただけだった。

「お子さんが生まれたらメールしてくれる?」
「もちろんです、必ず連絡します」
「楽しみにしてるから。大きくなったらパークにも一緒に遊びに来てね」
「先輩もときどき教えてください。その、ブルーとか他の恐竜たちのこと。あ、それは守秘義務違反になるのかな。はは」

一足先にパーティーの輪に戻る彼の背中を見送りながら、私ははじめて寂しさを意識していた。
3ヶ月半という短い間ではあったけど、毎日のように顔を合わせて苦楽を共にしてきた戦友がいなくなることに、たった今気づいたかのように。

ふいに背後から視線を感じた。アリーナに目を凝らすと、一頭のラプトルがこちらに近づいてくる。
鳥類を思わせる独特の足取りから、それがデルタであることはすぐにわかった。
照明の真下に躍り出た彼女はやはり鳥みたいに小首を傾げて私を見る。
しきりに鼻を鳴らしているので、嗅ぎなれないロンの匂いを追いかけてここまで来たのかもしれない。

「おいでデルタ。ほら、いい子。おいで?」

人は一番大切なものができると、それと引き換えに別の何かを手放さなきゃならないのかもしれない。
捨てるわけじゃない、壊すわけでも、ましてや忘れてしまうわけでもないが、そこにそっと置いていかなければならない決断の瞬間が誰しもに訪れる。
多すぎる荷物は視界をふさいでしまうし、人生の全てを抱えて歩くには道のりは長すぎるのだから。

高校生の頃から10年以上にわたって居場所を与えてくれたかつての職場、ノースカロライナ動物園のことを思い出し、久しぶりに胸がうずいた。
私を群れの一員として認めてくれたアカオオカミたち、いつまでも仔猫気分が抜けないボブキャット、大きな体でじゃれついてきたオセロット、決して人間に心を許さない孤高のヒクイドリ、長年訓練してきたアメリカチョウゲンボウに、育児放棄され私が親代わりを務めたオオハナインコ。
そのほかの子たちもみんなみんな、置いてきてしまった。
そして、私一人だけがここに……。

今や手を伸ばせば届く距離にまで近づいたデルタの生暖かい息が手のひらに吹きかかる。
彼女の後脚のかぎ爪がカチカチと地面を叩く。まるで急かすように。あるいはただの警告として。

「大切にするからね。デルタ、あなたのこともブルーも、エコーもチャーリーもみんな。できることは全部やる。約束する」

私は意を決して、柵の隙間に指を差し込んだ。
すぐにざらざらした皮膚の感触に指先をくすぐられ、私もデルタの鼻先をくすぐり返した。
猫のように収縮する瞳孔が私の一挙一動を睨みつけているが、デルタは今のところ噛みつくそぶりを見せていない。この琥珀のような瞳が私は大好きだった。
私の一番大切な子たち。今の私が一生懸命抱えている大切な。

「もっといっぱい一緒にいたいね」

月明かりに輝く琥珀の瞳が、ゆっくりとまばたきを返してくれた。

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