ひとつだけ

古びたトレーラーハウスのドアを開けたとき、私の目に飛び込んできたのは、にわかには信じがたい光景だった。

「姉さん? ただいま」
「あら、クレア。おかえりなさい」
「その子どうしたの?」

痩せぎすで黒髪を少年のように短く刈り込んだ姉と、その腕のなかですやすや寝息を立てる生後4ヶ月くらいの赤ん坊。なんて奇妙な取り合わせだろう。
酸化した油の匂いが染みついた狭いキッチンスペースから出てきたヘンリエッタは私の質問には答えず、「うふふ、可愛いでしょう」と無垢な生き物に頬ずりをした。
可愛い。確かに可愛いと思う。問題はその天使のような風貌や、髪色や、肌の色が姉とは似ても似つかないことだった。
どこで拾ったのか、奪ったのか、さらったのかは知らないし訊く気もない。とにかく、私がここを出ていた2ヶ月の間に突然現れたこのチビが姉の実子であるはずないことだけは確かだった。

「あら! クレア、帰ったの? ねえお茶はいかが?」

奥の部屋からもうひとりの姉が声を張る。相変わらずよく通る声だ。
歳の離れた、そしてヘンリエッタ同様血の繋がらない姉はとにかく一日中ほとんど動かずお茶ばかり飲んでいる。テキサス人の血管を流れるクラフトビールじゃなくて、茶葉から淹れた紅茶を。

「いらなーい! ちょっと出かけてくるから帰ってからね! あ、お土産にチョコレートあるから食べていいよ」

それから幸せいっぱいのヘンリエッタに再び向き直り、向こうの家に行ってくるからと告げて荷物を適当に放り投げると、私はトレーラーハウスを後にした。


雑草が伸び放題になっているヒューイット家の庭は、全速力で走る私の足を痛めつけた。
だけどそんなの全然気にならない。一分でも一秒でもいい、早くあそこにたどり着きたい一心だった。
息を切らせて玄関前の階段を駈け登り、ところどころペンキの剥がれた白いドアを押し開ける。家中が不気味なほどに静まり返っていることに気づいて、急に気持ちが削がれた。
おかしい。みんな出かけてるんだろうか?

「おじゃましまーす……」

後ろめたいことなんてないのに、つい足音を殺してしまうのはどうしてだろう。
妙な緊張感が深海の水圧みたいに私を押しつぶそうとする。短い廊下を進むにつれて増していくその重苦しい感覚は、淡いカーキ色の制服の背中を見つけた瞬間にピークに達した。
よりによってこの人が居るなんて……。それなのに家の中がこんなに静かだなんて、ますますおかしなこともあるものだ。
そんなことを考えながら、足音を殺して開けっぱなしのドアの前を通り過ぎる——つもりが、後ろからがっちり肩を捕まえられた。

「やあ、おい。クレアじゃないか! いつ戻ったんだ? 挨拶くらいしてくれたっていいだろうに」

我ながらぎくしゃくした動きで振り返ると、案の定、そこにはニタニタと笑うホイト保安官の姿があった。

「ああ……どうも。お久しぶりです」

この人ばかりはどうにも苦手だ。

「今日帰ってきたんですよ。あ、これおばさんに渡しておいてください」

茶菓子を受け取った“保安官”は「なんだなんだ、クレアは相変わらず辛気臭いな、んん?」と私を上から下まで眺めた。
心外だ。私が辛気臭いならテキサスの人間の9割はゾンビだ。
とはいえまさか「いえいえ、私がこうなるのはあなたが苦手だからです」などと言う訳にもいかず、当たり障りのない笑みを顔に貼り付けて「それじゃあ」と彼の前を辞した。

ああ、早くトーマスに会いたい。
先ほど邪魔が入ったせいか、よけいに彼への思いが募る。どうか出かけていませんように……。
目的の場所は廊下の突き当たりにあった。地下室へ続くコンクリートの階段は薄暗くて、心なしか空気も湿って澱んでいるように感じる。
ここを降りて直接会いに行く気にはなれなかった。あの地下室はなんと言うか……それこそ“辛気臭い”のだ。
ぼんやりと光が差す廊下と、黒い口を開けて佇む階段のくっきりとした境目に、私は爪先だけ踏み入れて叫んだ。

「トーマス、いるー? トーマスー! ト——」

三度目の名前を呼び終える前に、扉の向こうからどんどんがらがら、物が落ちたり割れたりする音がした。ややあって、騒がしい足音が続く。
もしかしたら転んだのかも。階段の下からマスクの鼻あたりを手で押さえつつトーマスが現れたとき、懸念は確信に変わった。しかも顔から転んだらしい。

「トミー、久しぶり!」

さあおいでと広げた両腕めがけて大きな体が階段を駆け上って来る(また転ぶんじゃないかとちょっと心配した)。
トーマスは私の頭をエプロンの胸に押し付けて、彼に会う為にせっかく綺麗にセットした髪をぐしゃぐしゃに撫で回してくれた。
たった2ヶ月ぶりの再開にしては大げさだなあとちょっと笑えたけど、でもそんな可愛い彼が愛しくて愛しくてたまらないとも思う。

「ねえトーマス、ちょっと外に出ようか」

荒れて、無骨で、でも不思議と魅力的な……まるで誰かさんのような庭を思い浮かべた。

「私ね、トーマスに話してあげたい事がいっぱいあるの。聞いてくれる?」

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