Mirage

澱んだ空気と熱い蒸気が滞留するボイラー室をさまよっていると、なんだか巨大な生き物の腹の中にいるような気分にさせられる。
丸みを帯びた大小のボイラータンクと、そこから伸びる無数のパイプが臓器や血管を喚起させるせいだろうか。
更に天井からは黒いコードがヒルのようにうねうねと絡まり合いながら垂れ下がっていて、まったく、不気味としか言いようのない光景を作り上げていた。
視界を塞ぐ霧を片手で振り払う。ふいに前方から引きつった悲鳴が轟いた。
よく足音を反響する鉄の床をそうっと踏みながら声をたどると、そこでは今まさに本日の犠牲者が息絶えようとしているところだった。
うわー、嫌なタイミングで来ちゃったなあ……。
胸から溢れる血液と同じくらい赤い髪をした少女は私に気がつくと、痙攣する腕をこちらへと伸ばした。
その手があまりにもいじらしく見えたものだから一瞬駆け寄って助けてやりたくなったけれど、縋るような腕はすぐに力つきて、彼女はフライパンの上の水滴みたいに跡形もなく消え失せた。

「フレディ」

小さく名前を呼ぶ。あまりにも呼び慣れてしまった、その名前を。
すると、赤毛と私の間に立ちはだかっていた男がぱっと振り向いた。
彼はクリームを舐めた猫みたいに満足げな表情をしていて、私まで嬉しくなってしまう。
この人が嬉しそうなのは今まさに一人の少女を殺したからなのにね。なんだか最近、自分の常識とか良心とかが信じられなくなってきて少し怖い。

「やあ、シャーロット」

そう言って笑う夢魔の右手につけたかぎ爪からは血が滴っている。
彼——フレディ・クルーガーがそれを振り払うと、飛び散った赤が床に水玉模様を描いた。
それはちょうど先ほど赤毛の少女が死んだ場所だな、と気がついたけれど、私の心にはこれといった憐憫の情はわき上がってはこなかった。
いや、少しは気の毒に思う。ただ、私は名も知らない誰かよりもフレディのほうがずっとずっと、ずーっと好きなだけだ。
夢魔は浅緑色の瞳を僅かに緩めて、おいでおいでと腕を広げて私を呼んだ。金属の爪同士が擦れ合ってかちゃかちゃと音を立てる。
私はその胸に、真新しい血が染み付いたセーターに飛び込んだ。
ねえフレディ、好きよ。好き。しぬほど、すき。
猫みたいな目も、頭上から降ってくるハスキーな笑い声も、血の匂いがする熱い掌も、服も肌も裂くことのない強さで背中を引っ掻くナイフも……なにもかもいとしいと思うの。
そんな切迫した想いに気がついているのかいないのか、彼は爪の背でゆるりと私の頬を撫でた。

「フレディ」
「んん? どうしたんだ、お姫様」
「……ううん、なんでもない。なんでも、ないの」

巨大な生き物の腹がぐねぐねとうねりながら、私の良心や、正義感や理性、そして私自身をも消化しようとしていた。

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    エルム街の悪夢フレディ(旧)
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