carpe diem

アルゼンチン国内で最も蒸し暑い州のひとつミシオネス。ブラジルとの国境にほど近い熱帯雨林で、わたしたち一家は暮らしている。
祖父母の代じゃアマゾン暮らしなんて珍しくもないことだったが、今やご近所さんと呼べる存在は野生動物以外にほとんどいなくなってしまった。時代の流れを思えば無理もないことなのだろう。
電気もガスもない場所でわざわざ不便な生活に甘んじるなんてと同情されることもある。怪訝な目を向けられたり、ひどい時にはあからさまにあざけられることも。
それでもわたしはこの場所と生活が気に入っていた。
町に住む人々のように四六時中何かに追われて走り回ることも、他人の目を気にしてびくつくこともなく、喧騒に耳を塞いで耐える必要もないここをわたしは誇らしく感じてさえいる。

そんな暮らしの中でもとりわけ愛しいひとときは、夕食のあと、眠るまえに屋外で過ごす数十分間だった。
何もするでもなく、何を喋るでもなく。ただそこに座って時間が流れるに任せるだけのその時間。
今夜はいつものようにヴァニアと、それから近所に住むハラも一緒に、どんよりした空の下でぱちぱちはぜる焚き火を眺めている。
恰幅のいいハラは泥で汚れた自分の靴を睨みつけたままさっきから一声も発しないが、別に怒っているわけじゃない。この辺りの人間は揃って口数が少なかった。

わたしのはす向かいに座るヴァニアがふいに立ち上がり、家の中に消える。残されたわたしとハラのあいだに不自然な空気が立ちこめたが、間もなく戻ってきた彼女が何気ないふうにわたしのとなりに座り直したとき、無言はいっそう重さを増した。
鳥も騒がず獣も鳴かず、誰も彼もが無言のなかでヴァニアが薪を放り込む音だけがする。
家業である葉タバコの収穫や日々の水仕事によって荒れた彼女の指は生命力を感じさせた。薬指には昼間わたしが巻いてやった傷テープがそのまま残っている。
指の動きを同時に目で追いかけるわたしとハラの視線がぶつかり合って、わたしの方が先にそらした。
のっそりと立ち上がるハラが挨拶らしき言葉を口ごもると、ヴァニアは「またね」と短く返す。
この可愛らしい声は彼を勇気づける薬になり得るんだろうか。それともただ胸を蝕む毒でしかないのかも。
立ち去る間際、ハラはヴァニアに向けて切ない視線を投げかけた。いつもどこか思い詰めた風をした目付きが、ますます陰をたたえている。
その視線がわたしの上を通り過ぎるとき、視線は別の色に変わっていた。
これはなんの色だろう。嫉妬、敵意、不平不満に失意、傷心、落胆、そんなところだろうか?

彼は臆病者なわけじゃない。
ただ信じたいのだ。いつか自分の行いがヴァニアの目に留まり、彼女がやさしく微笑んでくれることで全てが報われる瞬間を。
だけどわたしたちは永遠を生きてるわけじゃない。待っていてもいつかなんて来ないかもしれないし、明日を迎えられる保証さえない。
そこだけは、町で暮らす人々となにも変わらない。

ふいに腕にくすぐったさを覚えて目をやると、ヴァニアが服の袖を引っぱっていた。わずかに眉根を寄せた顔でこちらを覗き込んでくる。
安心させてあげたいけど上の空の理由をきちんと説明するのは難しいし、今の雰囲気を壊すのが嫌だったので微笑むことでごまかした。

「あなたのせいね」

その意味を理解したにせよそうでないにせよ、ヴァニアは黙ってわたしの指を撫でた。荒れた手の甲が炎の色に揺れている。ひたいや顎や唇も。瞳さえも。わたしのも同じだろうか。
少し汗ばんだ手のひらが肌を舐めるように手首まで這い上がってきて、次に起きることはなんとなく予想したけど実現はしなかった。
ヴァニアの父親のジョアンが戸口からひょっこり姿をのぞかせたからだ。彼は訳知り顔で夜空を仰いだ。

「じき雨になる。二人とももう中に入りなさい」
「わかったわ、父さん」

ヴァニアが答え、焚き火を消して家に戻った。
先に潜り込んだベッドの中から、向こうの部屋で父親におやすみを告げるヴァニアの声を聞いていると、不思議と心が満ち足りて、全身に心地よい気だるさを感じた。

「今日はいい日だったね」

実際は特別なことなんて何もなかったけど、同じシーツにもぐりこみ、わたしの隣に横たわるヴァニアの腰を引き寄せながらいつものようにそう言った。口にすることで何気ない1日もかけがえのないものだったと思えるから。
ヴァニアもいつものように「そうね」と答えてくれた。

「好きだよ」

ヴァニアの両頬を手のひらで挟んで、まっすぐこちらを向かせながらささやく。
薄い紙を折り重ねるように、小枝を高く積み上げるように、この言葉がヴァニアの中に降り積もっていっぱいになるまで、何度も何度も繰り返す。好きよ。大好きだよ。昨日も今日も明日も……。
雨が屋根を叩きはじめたころ、たくさんキスをして満足したヴァニアは早くもうとうとしながら、わたしの鎖骨あたりを触っていた。
指の先だけを使って、柔らかい砂地をならすみたいに慎重に。
むかしむかし、毎晩のように悪夢を見ては泣いていた幼いヴァニアをよくこうやってなだめてやっていた。怖い夢を忘れて笑ってくれるまで、そして寝息を立ててくれるまで、いつまでもいつまでも彼女の胸をくすぐっていたものだ。
それをこの子が真似するようになって、今では毎晩おきまりの儀式と化している。

わたしの首もとに顔をうずめるヴァニアが息苦しくならないように上掛けを少しさげてやり、その肩に腕を回す。素肌をくすぐってくる、満足げな吐息はあたたかい。
ぴったりと密着した胸を通じて規則的な呼吸を感じる。そのリズムが落ち着くと言うと、ヴァニアはもっと体をくっつけてきた。
まばたきもせずこちらを見つめる瞳がねだっているものがなんなのか、わたしはよく知っている。

「じゃあこれで最後」

唇には届かないからおでこにキスを落とした。

「おやすみヴァニア。また明日ね」
「また明日」

ヴァニアの頭のてっぺんに正真正銘、最後のキスをしてから目を閉じる。
いつか、大切なこの生活を守るために戦わなければならない日がきたとしても……わたしは何だってできるだろうと思った。

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