親密さを置き去りに

IBRIS計画は、ヌブラル島の東端でひっそりと進められていた。
そこではプロジェクト名(Integrated Behavioral Raptor Intelligence Study)の通り四頭のヴェロキラプトルが飼育されているが、極秘の研究のため、一般向けには公開どころか存在すら明かされていない。
ここで働く従業員は多いときでも30名ほどで、ニーナ・ウォーカーはそのうちのひとりだ。彼女はブルーたち4姉妹が生まれて間もない頃に、調教アドバイザー兼飼育員としてこの計画に加わった。
島にやってくる前はノースカロライナ動物園で10年以上にわたって猛禽類の飼育、研究、そして調教に携わっており、その実績と知識を買われてのことだった。
そのようなたくましい経歴とは裏腹に、ニーナは朗らかな人間だ。いかにも南部出身らしい陽気な性格と歌うような訛りの声、そこに小柄な外見が加わると、一見した印象ではとても命を賭して肉食恐竜の調教にあたっている人物とは思えない。
だが小さな体にとどめきれない情熱と粘り強さは、明るい輝きをたたえた瞳と笑顔、そして弾むような身のこなしを通じて発散されていた。

しかしその炎は、今朝に限ってはほとんど消し炭になってしまっているようだった——少なくとも、IBRIS計画の主任を務めるバリー・センベーヌの目にはそう映った。
右のふくらはぎと前腕に白い包帯を巻いたニーナは、いつもの堂々と胸を張った立ち姿ではなく、しゅんと肩を落として事故報告書の用紙をバリーに手渡した。
日焼けしたニーナの肌よりもさらに深い色をしたバリーの手がそれを受け取る。だが、状況は未だ飲み込めていない。
まったく、昨日一日休んだ間にいったい何が起きた?
アクセサリーにしては痛々しいそれの存在にバリーは顔をしかめたが、ニーナの隣に並ぶオーウェンの左腕にもどういうわけだか包帯が巻かれているのを見ると、困惑はさらに深まった。

「おいおい……どうした、俺抜きで決闘でもやったのか?」

負傷者ふたりが不穏な目配せを交わす。先に口を開いたのはオーウェンだった。

「エコーとデルタの喧嘩のとばっちりってやつだな」
「私はオーウェンに加勢しようとしてブルーに噛まれた」
「なんだって?」

バリーは戸惑ったように聞き返し、その場面を脳裏に思い描こうとして軽く眉根を寄せた。

「じゃあ……三頭で喧嘩してたのか?」
「いや、ブルーは大人しく寝てたの。うるさいな、もう勝手にしてって感じで」

ニーナの視線が自分の腕に飛ぶ。まるで真っ白い包帯の存在が一生の不覚だと言わんばかりの顔つきをしている。

「それが……私がちょっとオーウェンに近づいたら、いきなり起きて飛びかかってきて」

やきもち焼きだからね、ニーナはそう言葉を結んでから、今度はTシャツの袖を引っ張った。もちろん、それで包帯の存在を隠せるはずもなかったが。
彼女はブルーに襲われたことがショックなのではなく、自分自身に腹を立てているのだろうとバリーは思った。

「まだ痛むんじゃないか? 今日はもう帰ってもいいぞ。いや、オーウェン、お前は働け」
「ううん平気。そんなに深くないしちょっと縫っただけだから。あ、でも、そう言ってくれるなら……」


今日のアリーナは不可解なほどに静かだった。
彼女らの遊び場、兼トレーニングフィールドとして使われている八角形のアリーナに隣接するバックヤードスペースから、ニーナは中の様子を窺った。鉄柵越しの景色のどこにもラプトルたちの姿は見えない。
不思議だ。落ち葉を踏む音もしなければ、鳴き声のひとつも聞こえないなんて。せっかく気が滅入るような事務作業から解放されたのに、これではまったく面白くない。
ニーナは、休みはいらないが午前の仕事を代わってほしい、そのあいだラプトルたちと遊ぶ許可がほしいと願い出たのだった。
それを聞いた時のバリーとオーウェンの顔を思い出すと、自然と笑みがこぼれた。

「ブルーちゃん!」

返事はない。続いて他の三姉妹の名前も大声で呼んでみたが、その誰からもやはり返事は得られなかった。
ふいに数メートル先の茂みから生き物が姿を現した。ラプトルではない。人間の男性だ。

「あれ? スタン?」

日頃から親しくしている同僚に向かって片手を上げる。同じしぐさを返しながら悠々と近づいてきたスタンは、まず最初におはようと挨拶をした。

「怪我の具合は?」
「平気平気。ネコに噛まれたくらいだから」
「おーおー、よく言うよ。んで、ブルーたちだったらまだ厩舎。昨日ずいぶん散らかしてくれたおかげで掃除に時間がかかってさ」

スタンの無線がカリカリと音を立て、機械の向こうの人物とやり取りが交わされた。額に汗を浮かべた飼育員はニーナに向かって頷くと、再び無線に口元を寄せて「了解」と返した。

「ちょうど向こうも終わった。今からお散歩タイムだとさ」

スタンがアリーナを出て行ってしばらくすると、安全確認の掛け声と共に、厩舎の電動扉が開かれる音がした。続いて、ラプトルたちのにぎやかな足音。
ブルー、デルタ、エコーはさっそく縄張りの偵察に向かうため散開したようだが、チャーリーだけがバックヤードのある方向へふらふら近寄ってきた。

「チャーリーちゃん!」

チャーリーが足を止め、細長い頭をかたむける。やがて自分の名前を呼んだ相手の正体に気づくと、短い鳴き声を発した。
たったったっ、と足取りも軽やかに近づいてくるチャーリーの機嫌は悪くなさそうだったが、念のため、ニーナは鉄柵から距離を取って待った。
柵すれすれのところで脚にブレーキをかけた末っ子がまっすぐニーナの目を見つめる。ニーナはゆっくりとまばたきをすることでこちらに敵意がないことを示し、チャーリーもまばたきを返してくれたことを確認してから、鉄柵の隙間に手を差し入れた。

「Howdy、チャーリー。元気?」

しきりに鼻腔をひくつかせるチャーリーの鼻息をまともに浴びて、ニーナはくすぐったさに顔をそむけた。呼吸の荒さは興奮や怒りが原因ではないようだ……化膿止め軟膏の匂いが気になるのだろう。
チャーリーがお辞儀をするように頭を下げたので、後頭部をゆっくり撫でてやった。

「いいこ……抱っこしてもいい?」

もう片方の腕も差し入れる。ニーナの両腕がチャーリーの頭を抱きかかえると、白い喉がグルルという低い音を奏でる。
怪我のせいで腕が曲げづらい。それに、分厚くて重いセーフティグローブを着けている影響もある。
なめし革とステンレス鋼メッシュで出来たロンググローブは、今は長袖ジャケットに隠れていて外からは見えない。
何度もテストを重ねて作ってもらった特注品とはいえ、ヴェロキラプトルの本気の咬合力をどの程度吸収してくれるかは……あまり期待しない方がいいだろう。
なにせヴェロキラプトルという生き物はネコより気まぐれでプライドも高い。
ほんの1秒前まで大人しく撫でられていたはずが、いきなり豹変して噛みついてくることは珍しくないし、実際危うく腕を無くしかけたことが何度もある。ラプトルの機嫌はロサンゼルスの天候より移ろいやすいというのが、ニーナをはじめとする飼育員全体の共通認識だ。
それでも、今のところチャーリーからは攻撃の前兆は見受けられなかった。

「また自分のごはんをブルーにあげちゃったんだって?」

すると、腕の中の恐竜が不服を表明するかのように唸ったので、ニーナは冷静な口調を保ったまま、頭を撫でて機嫌をとった。

「叱ってるんじゃないのよ。でもチャーリーのごはんはチャーリーのなんだから。ちゃんと食べてくれないとみんな心配しちゃうでしょ」

チャーリーはブルーへの忠誠心が強い。強すぎると言ってもいいくらいだ。
自らの遊びや食事よりも姉を優先してしまうため、一時は成長の遅れが懸念されるほどだったが、今のところ他の三頭と比べて体格が見劣りするということはないのが幸いだった。
現在の体高は1メートル30センチほど、尻尾を含めた体長は3メートルに満たない程度だが、もうあと一回り……いや、それ以上に大きくなるだろう。
急にみぞおちに硬いものが触れて、ニーナはぎくりとした。撫でられることに夢中になってぐいぐいと身体を押し付けるチャーリーの前脚の鉤爪が服越しに当たっていた。
人間の腕が通る隙間があるということは、当然ラプトルの前脚も難なく通る——そのことをすっかり忘れていた。
チャーリーの爪にわずかに力がこもる。狩猟本能に火がつかないうちに、ニーナはその手を握って茶化した。

「はいはい、握手」
「昨日噛まれたばかりだろ」
「やだ、びっくりした!」

背後からの突然の声に、ニーナは腰を抜かしそうになった。
慌てて振り返ると、バックヤードの出入り口から眉間に皺を寄せたオーウェンが入ってくる。
ニーナは彼の方へ一歩踏み出すことで、柵から距離を取った。もうチャーリーの鉤爪は彼女に触れられず、背後からキュルルル、という名残惜しそうな声が聞こえる。

「でも、ほら、チャーリーには噛まれてないから……」
「あの子はどうだろうな」

オーウェンが肩をすくめて意地悪い笑みを浮かべる。彼が顎で指し示す方向を見ると、太い幹の陰から、ブルーが顔を半分だけ覗かせていることに気がついた。
長女は鋭い牙を剥き出しにしながら低い唸り声を発している。姿勢を低く構えて、いつこちらに走り出してきてもおかしくない。
実際、タイミングよくオーウェンが入ってこなければ、今にも突進してきて噛み付くつもりだったに違いないとニーナは思った。

「ブルーちゃん! おいで!」

常々嫌っているニーナからの呼びかけに、ブルーが刺々しい声で吠え立てる。その気迫はチャーリーをたじろがせたが、ニーナとオーウェンは顔を見合わせて苦笑を交わした。

「怒らせちゃった」
「ブルー」

今度はオーウェンがその名前を呼ぶ。
ブルーはまだイライラした様子で足を踏み鳴らしていたが、もう一度群れのアルファに呼びつけられると、渋々といった様子で近寄ってきた。
その頃にはニーナは鉄柵から離れた場所に移動していて、チャーリーも彼女に従うように端に寄っていたので、ブルーとオーウェンは誰にも邪魔されることなく真正面から向き合うことができた。
唯一の障壁である鉄格子の隙間から鼻先を突き出しながら、ブルーが甘えた声を出す。
オーウェンが長女の鼻の上をやさしく撫でてやったとき、ニーナは急にくすくす笑いはじめた。

「昨日噛まれたばっかりでしょ?」

視線だけで同僚を一瞥したオーウェンが、ニヤッと笑って言い返す。

「俺はブルーには噛まれてない」

すると突然、ブルーが低い唸り声を発したかと思うと、柵の向こうでガチンと牙を噛み鳴らした。
ニーナは驚きに目を丸くして、だがオーウェンに怪我がないことがわかるとほっと息を吐いた。
またしても牙が空を噛み、すかさず群れのアルファが叱責を飛ばした。

「だめだブルー! 悪い子だ!」

ブルーは姉妹の中でも特別に頭が良く、情緒豊かな子ではあるが、ときどき全く手に負えなくなる。今がまさにそのときだった。
とてつもなく頑固で思い込みの激しいティーンエイジャーと化したブルーはオーウェンに叱られても一歩も引く様子がない。恋は人を愚かにするというが、恐竜も例外ではないらしい。
怪我をした方の脚を隠すように後ろへ引いて、ブルーが振り乱している尻尾の動きを目で追いながら、ニーナは困り果てて自分の顎を指でたたいた。
普段のニーナなら、決して調教している動物を前に降参したりはしないが、これは上下関係ではなく感情の問題なのだと知っていた。
しかしあいにくニーナにはブルーにぶつけ返すべき感情の持ち合わせはない。
オーウェンに対してそのような気持ちはないこと、これからもそれはあり得ないことをこんこんと語って聞かせてもいいのだが、それもまた骨の折れる話ではある。
そこで彼女は喧嘩をする気はないことを示すためにゆっくり頷くと、ブルーから顔をそむけた。
隅へ追いやられたまま、誰に加勢すべきか決めかねてフンフンと鼻を鳴らしているチャーリーと目があった。ニーナが控えめな笑みを浮かべる。

「困ったお姉ちゃんね」

誰にともなくつぶやくとオーウェンはため息をつき、チャーリーは首をかしげて、そしてブルーはまたしても吠えた。

タイトルとURLをコピーしました