オリオンが昇る

人工的に作り上げた6500万年前のミニチュアの森に、さまざまな音がこだまする。
ブルーかデルタか、それとも他の子が姉妹の誰かに呼びかける声、チャーリーのものと思しき甲高い声に、エコーが放つ独特の唸り声。地面を駆ける足音、驚いた鳥が飛び立つ羽音と抗議の鳴き声、木々の葉擦れ。
午後のトレーニングが始まるまでの一時間余り、四頭のラプトルたちは思い思いにアリーナの中を探索していた。
姉妹同士で駆け回り、転がり、追って追いかけられて、ときには喧嘩もしながら過ごす時間は彼女たちにとっては他者の干渉を受けない自由なひと時であり、生活基盤とルールを学ぶための大切な学習時間でもある。

だけど人間の方はといえば、そうくつろいでばかりもいられない。
予定の時刻が迫る中、スタッフたちはそれぞれ無線で連絡を取り合ったり、データを記録するための機材を準備したり、ラプトル不在の間に厩舎を掃除したりと忙しく動き回っていた。
今ここで静止しているものと言えば、バックヤードにたたずむバリーくらいのものだろう。
アリーナに隣接するバックヤードは車庫くらいの大きさで、ちょうど大型動物の檻と同じように堅牢な鉄格子を建材としている。
その鉄格子に鼻先が触れそうなくらい顔を近づけた主任調教師が凝視しているのは、四姉妹の末っ子チャーリーの後ろ姿だ。

「何してるんだ? あれは……」

彼の訝しむ声が嫌な予感をかきたてる。私はそばの同僚にラプトルたちの餌の準備を頼んでおいてから、バリーの隣に駆け寄った。

「なになに?」
「チャーリーの様子がおかしくないか? ちょっと見てくれ」

なるほど、たしかにおかしい。妙に興奮しているし、しきりに草むらに鼻先を突っ込んでぴょんぴょん飛び跳ねながら、地面を踏みつけるような動作を繰り返している。
こちらに背中を向けているせいでよく見えない……もしかしてバッタか何かいるのかも。

「チャーリー? おーいそこでなにしてるのー?」

私の大声は間違いなくあの子の耳にも届いたはずだけど、残念ながら、何人かの同僚たちを驚かせただけで肝心の恐竜は見向きもしてくれない。

「あーっダメだ完全に無視されてる。ちょっとバリーも呼んでみてよ」
「チャーリー!おいチャーリー! こっちに……ちがうお前じゃない」

駆け寄ってきたのはデルタだった。格子に身体を押し付けて甘えるデルタを撫でてやりながら、バリーはお手上げだと言うふうに肩をすくめた。
森のどこかから、エコーのものらしき吠え声がとどろいた。すると驚いた末っ子が草むらから顔を上げて、身体の向きを変える。
そのおかげで私たちにもやっと状況が呑み込めた。ヘビだ。それも胴回りが6センチもありそうな立派な大蛇が、あの子の足元でとぐろを巻いている。

「おい嘘だろ」
「あー、あれは……」

私の声から緊張が伝わってしまったのか、バリーにもこれがよくない展開だと察しがついたらしい。いつもは人懐こそうな顔が気の毒なくらいこわばっている。

「毒ヘビだなんて言うなよ」
「よく見えないけど……でも、多分。だとしてもそんなにやばいやつではないんだけど」

あれは怖いか怖くないで言えば怖くない毒ヘビだ。おとなしくて臆病だから自分より大きな生き物を好んで襲うことはないし、毒の致死性も低いから。
コスタリカとパナマ全域に広く生息していることもあり、誤って踏みつけてしまった人間や家畜がうっかり噛まれる事故は毎年かなりの件数起きているが、その割に死亡例は少ない。
ただ、だからこそ不安なのだ。そんなヘビが逃げも隠れもせずに相手に向かって攻撃性をあらわにしていることが。

「どうしよう……すごく気が立ってるっぽい」

次の瞬間、いきなりヘビが跳んだ。
全身をバネにした悪夢のごとき跳躍に私もバリーも思わず声を上げてしまったが、チャーリーはうまく身をかわしたようで負傷の気配はない。
だけど次の攻撃も避けられるだろうか?
噛まれたところで大したことはないかもしれない。だけど、ヘビの毒が恐竜にどう影響するのかなんて私にわかるはずもない。
もしチャーリーに何かあったら……想像するだけでみぞおちが締め付けられて、その痛みから逃げるように、バカな考えが頭に浮かぶ。
そのとき、さっき無線で連絡を入れておいたオーウェンが走ってこちらにやってくるのが見えた。鉄格子の檻に駆け込んできた彼にざっと事情を説明する。

「なら入るしかないだろ」
「おいやめてくれ。いいかオーウェン、その冗談は、ちっとも、笑えない」
「他に案があるか?」

それでもバリーは断固として首を振る。一刻を争う事態にこそ、性格の違いが現れるものだ。
対立する二人の間に挟まれた私がどちらに加勢するべきなのかは明白だったが、ときおり感情は理性をねじ伏せる。

「でもほら、オーウェンなら大丈夫かも?」

さっき頭をよぎったバカな考え——アリーナの中に入ってヘビを回収するという発想をオーウェンも思い浮かべていたことを知って、私はなぜか心強さを感じていた。よかった、自分以外にも無謀なヒトがいてくれて。
この場で唯一の良識者たるバリーが信じられないといったふうに目を丸くして私を見下ろしてくる。それからまたオーウェンの方に顔を向けた。

「この間はあの子たちも腹を空かせてなかっただろ? 今日とは違う」
「だろうな」

もしかしたらオーウェンは、同意や同調という言葉の意味をわかっていないのかもしれない。
だって次の瞬間彼が起こした行動は、「だろうな」とは正反対、つまりアリーナとここを隔てる出入り口の開閉ボタンに手のひらを叩きつけ、鉄格子が半分も上昇しないうちにアリーナ内部へと侵入することだったのだから。
バリーがフランス語の罵りらしき言葉を口にするのが私の耳にもはっきり聞こえた。

「チャーリー!」
「チャーリーちゃん!」

オーウェンと私が同時に叫ぶ。それは末っ子の鼻先がヘビに向かって近づいていくのを制止するためだった。

「チャーリー、それは置いてゆっくりこっちに来い。ほら、俺の言ってることがわかるな?」

爬虫類じみた眼でオーウェンと私、そしてバリーを見比べながら、チャーリーは不思議そうに首をかしげた。
そのしぐさからは敵意を感じられないが、油断はできない。あの子は比較的温厚な性格をしているとはいえ、姉たちにけしかけられたらきっと迷いなく襲いかかってくる。
デルタだってそうだろうし、エコーはそもそも遊び半分に命を狙うような子だ。
そのとき、視界の端で青色が動いた。ちょうどアリーナの見回りを終えて戻ってきたブルーがこの騒ぎに気づいて、低く唸りながらこちらに近づいてくる。
オーウェンがすかさず制止をかけるが、長女はすぐには従わなかった。
尻尾を左右に振り立てながら、ジリジリ彼との距離を埋めていく。あの動きは威嚇? それとも甘えの証だろうか?
周りのスタッフや警備員たちのざわめきが大きくなる。それでも誰ひとり手出しすることもできず、固唾を飲んでことの成り行きを見守っている。
私の方はといえば、元々の楽観的な性格と、先日オーウェンとブルーが仲睦まじくじゃれあっていた姿が記憶に新しいおかげで自分でも意外なくらい落ち着いていて、みんなの混乱や悲鳴がおかしく思えてくるほどだった。

「ブルー」

オーウェンの毅然とした、だが優しさを含んだ声。
驚いたのは、名前を呼ぶその一声だけでまるですべてを理解したかのように、長女がチャーリーの方を振り向いたことだった。
ブルーがラプトル同士にしかわからない言語で命令すると、チャーリーがやっと草むらから離れてくれたので、私もバリーも胸をなでおろした。おそらく他のスタッフたちも。
だけどその安堵も、つかの間の夢に終わった。
なんと、目ざとくヘビを見つけたデルタがその危険な生き物に近寄っていくではないか。
興味津々に鼻を鳴らす彼女に悪意はないのだろうが、すでにさんざんいじめ抜かれた哀れな爬虫類の方はそうは受け取らなかったらしい。
毒ヘビが首を縮め、新たな敵に狙いを定める。

「デルタ! だめ、やめて!」

反射的に叫んだ私の声はほとんど金切り声に近かった。開いたままの鉄格子からアリーナの中へ駆け込みかけて、しかし一歩踏み出したところでバリーに腕を掴んで引き戻された。
大声に驚いたデルタが反射的に身を低くして攻撃の構えに入る。半ばパニックに陥った彼女はこちらに駆け出そうとして——足元のヘビを思いきり蹴り飛ばしてしまった。
よりによって、私の方に向かって。


2時間後にアリーナに戻ってくると、ラプトルたちはちょうど日課の健康診断を受けているところだった。
四頭は厩舎の壁の小窓から並んで顔を出し、思い思いの方法で不機嫌を振りまいている。チャーリーがひどく唸っているから厩舎内で獣医が触診しているのだろう。
バリーは厩舎の中ではなく外側にいて、金属の口枷にがっちり固定されたエコーの首を優しく撫でてやっているところだった。
医療センターでの検査の結果はあらかじめ無線連絡してあったが、それでも彼は私に気づくとほっとしたように笑いかけてくれた。

「やっと今日のヒーローのお戻りだ。帰還祝いは何がいい?」
「ヒーローはオーウェンじゃない?」
「噛まれたのは一人だったけどな」
「平気平気。ヘビの種類もわかってたし、そもそもちょっとかすっただけだったから……」

長袖ジャケットが牙の食い込みを防いでくれて幸運だった。
実際のところ、診察時間よりも「恐竜からパスされたヘビをキャッチして噛まれました」発言を笑われていた時間の方が長かった気さえする。
それに怖さで言えば、エコーがどこからともなく現れて突進してきた瞬間の方がずっとずっと上だった。寸前でデルタと衝突して姉妹喧嘩がはじまったおかげでことなきを得たけど、全身噛みちぎられるところだった!
ちなみに、かわいそうなヘビは特に怪我もしていないようだったので森へ逃してやった。

「あんなバカなことするのは今回が最初で最後だって約束してくれよ?」
「え、オーウェンに言ってほしいんだけど」
「残念だったな、もう散々言った」
「だって……人間が噛まれても高熱と腫れくらいだけどラプトルが噛まれた前例ってないでしょ? だから心配で」

表情から察するに、バリーはまだちょっと説教が足りないと感じたらしい。だがその口から次の言葉が発せられることはなかった。
私が事故報告書の作成を言い訳にさっさと逃げ帰ろうとしたから……ではなく、さきほどまで大人しくしていたはずのデルタが急にかんしゃくを起こしたように暴れ始めたからだ。

「おいおい、どうしたっていうんだ?」

バリーが慌てて駆け寄ってなだめるが、何かを訴えかけるようにガタガタと体を揺する動作がおさまらない。中の獣医はデルタに近づいてもいないのに。
デルタが身をよじるたびに頑丈な金属の拘束具が壊れそうに軋み、そばで見守るスタッフたちの視線と恐怖を集めた。
私もその場に立ち尽くしたまま、どうしたんだろうと首をひねることしかできない。

「ニーナ」

バリーがはたと振り返り、こっちに戻ってこいと目鼻で示す。それに応じて近づく私の一挙一動を、デルタの大きな瞳がぎょろりと追いかけてくる。

「ほらやっぱり。そっちを見てる」
「餌だと思って?」
「かもな。なあ、デルタを任せてもいいか? ここ代わってもらえると助かる」
「え? でも……私が触ると嫌がるんだけどな」

デルタはいつもそうだ。
バリーにはよく懐いてて、オーウェンにも慣れてるのに、私は事あるごとにぐるぐる唸られてしまう。
よほど機嫌のいいタイミングでなら鉄柵越しにちょっと触らせてもらうことくらいはできるけど、最近はその程度。
抱き上げたり膝に乗せて遊んだ数年前が懐かしい。でもデルタだって今や立派なレディだもの、付かず離れずの距離で友好バランスを保てるならそれでいい。
なのに、拘束された状態で無理に撫でたりしたらあっという間に嫌われて振り出しに戻ってしまいそうで……。

「まあ、物は試しだ」
「あんまり試したくないけど……」

それでもバリーの謎の熱意に根負けして、恐る恐る緑色の皮膚に手のひらを滑らせた。

「あれっ?」

予想に反して、デルタは唸りも怒りもしなかった。牙を剥き出したり、尻尾を振り乱したり、後ろ脚で床を踏み鳴らすような気配もない。
相変わらず視線は私の顔に据えたまま、でもおとなしく成り行きに身を任せている。

「悪いと感じてるのかもな。この子なりに」
「さっきのこと? あはは、どうかな。でもだとしたら気にしなくていいからね」

久しぶりにじっくり触れ合うデルタの皮膚はあたたかい。それに子供の頃とは全く違う匂いで、まるで知らない子みたいに思える。だけどたしかに私の大切なデルタだ。
ごつごつした頭の上に頬を寄せると一瞬身じろぎをしたけど暴れることはなく、次女は諦めたように鼻から息を吐いた。
この子がまだ小さかった頃、よくこうして頬擦りしては同僚たちに心配されていたっけ。無謀なスキンシップに反対票を投じていた代表人のバリーは、しかし今日は口枷という安全策があるからだろう、おもしろそうに笑うだけで異論を唱えない。

「なんなら背中に乗ってみるか?」
「それはまた今度ね」

厩舎から出てきた獣医があからさまな嫌悪の視線を私の全身にくまなくねじ込んでから、足早に立ち去る。
普段ならちょっとムッとするところだけど、今日は失礼な態度も気にならなかった。だって私にはこんなにかわいいデルタがいるもの。
それに、それに……そう、こちらの理由は全然ありがたくも何ともないが、入れ違いに戻ってきたオーウェンの方が獣医よりも何倍も厄介に違いないからだ。
彼はいつものように、自信に溢れた大股歩きでのしのしとこちらに向かってくる。
なんとも言えない勝ち誇った表情を浮かべているのはきっと、間抜けな私をからかうためのセリフを100個くらい用意しているからに違いない。
助けを求めてデルタの首にすがりついたけど、返ってきたのは不機嫌な唸り声だけだった。

タイトルとURLをコピーしました