誠実な狼、不埒な少女

賑やかしい一日が終わって、任務を終えた太陽が地平線の彼方に沈みゆく時刻。化学教師のダークマンは、しんと静まり返った理科室で机に向かってペンを走らせていた。
広い室内にいるのは彼だけで、すでにほとんどの生徒が帰宅した後ということもあり邪魔は一人もいなかった。
理科室は彼のオアシスだ。
廊下の一番奥に位置しているから放課後の今は生徒の往来もないし、静かで、職員室よりもずっと落ち着いて仕事ができる。
だがその時、どういうわけだか廊下に人の気配を感じたせいで、彼はぎくりとして顔をあげた。
開けっ放しの出入り口に、あどけない顔とエンジ色のブレザーの上半身がひょっこりと覗く。次いでチェック柄のプリーツスカートがひらめいた。

「あ、やっぱりここに居たあ。せんせー?」

ダンスのステップでも踏むように軽やかに、その少女は中に入ってきた。
後ろ手にドアを閉め——かちり、と鍵のかかる音が続く——悪巧みの表情を浮かべる少女の名前は、

「ニーナ……」

彼女の突然の乱入に、ダークマンは冷や汗の流れる思いがした。
今どきの高校生には珍しく酒にもドラッグにも縁のないニーナは外見もおとなしいほうで、黙っていれば清楚で内気な少女として通るだろう。
しかし実際の性格はといえば……一言で表すなら大胆不敵。ダークマンにとってはとんだトラブルメーカーだ。
とはいえ、そんな彼女のことは決して嫌いではない。嫌っているのなら恋人同士の関係など結んでいるはずがないのだし。

「まだ残っていたのかい? 早く帰った方がいい、もうすぐ日が暮れるよ」
「うん、そうだねー」

はずむような足どりで近寄ってきたニーナが、ダークマンの手元を覗き込む。手入れの行き届いた髪の香りが立ちのぼった。

「そっちはこんな時間まで何してるの?」
「ちょっと……テストの採点をね」

それは本来なら今日の昼には終わっているはずが、まったく個人的な実験に夢中になってしまった結果で遅れの生じている、しごく面倒な業務であった。
ダークマン本人は明日でもいいかとのんびり構えていたものの、同僚から「今日中に済ませてくださいね」と釘を刺されては放り出して帰るわけにもいかず、結局、こうしてせっせと手を動かしているという訳だ。
作業用の眼鏡をはずして、ダークマンはおもいっきり背中を伸ばした。それから回転椅子ごとニーナの方を振り返る。

「ちょうど終わったよ。一緒に帰ろうか?」
「それもいいけど、ね」

含みのある声でそう言うと、ニーナはダークマンの膝にひょいと飛び乗ってきた。
向かい合わせに体を寄せて、挑発するような笑みを浮かべる。
少女と女性が混じったその表情に、ダークマンは不覚にも引き込まれてしまいそうになった。まだ不安定で、ぎこちなく、だけど妖艶で。
思わず頬がゆるみかけたが、慌てて気を引き締めた。結局のところ自分はニーナを愛している、そう再確認したのは嬉しいが、しかしここで流されるわけにはいかないのだ。
膝の上からどかそうと、ダークマンはニーナの腰を両手で掴んだ。細い腰。いけないと分かっているのに、ますます意識せずにはいられない。

「ニーナ、ここ学校——」
「またまたぁ。先生じつはそんな真面目なキャラじゃないくせに。私知ってるんだからねー」

ニーナが体をくっつけてきて、柔らかい弾力をシャツ越しに感じた。
狙いすました行動が憎らしい。だがなにより、それをかわいらしいと思う自分が憎らしい。

「なあ、ニーナ、ちょっと聞いて——」
「しーっ……お静かに」

ニーナの手のひらが伸びてきて、包帯の顔をそっと包み込む。
慣れたしぐさで継ぎ目を探しだし、くるくるとほどいていくと、焼けただれた顔の下半分があらわになって、ニーナはそこに優しくキスをした。
唇が削げ落ちてむき出しになった白い歯の間から、桃色の舌がぬるりと滑り込んでくる。
こう見えてニーナはまだ行為に不慣れだ。動きはどこかぎこちなく、こちらの方から舌を絡ませてやると怯えるように硬直するのが愛おしかった。
それをからかうと拗ねて二日は口をきいてくれなくなるから、決して面と向かっては言わないが。
ダークマンはもう相手をどかすことを忘れて、むしろその背中を強く引き寄せていた。
ブレザーの裾から差し入れた掌が、薄いブラウス越しにニーナの体温を愛でる。熱でもあるのかと思うくらい熱くて、包帯越しの手がじんわりと汗をかく。
やっと顔を離せば、蛍光灯の白々とした明かりを受けて、唾液の糸があやしく輝いた。まるで、雨の日の蜘蛛の糸のように。

「ふぁ……せんせ、もう……ね?」

熱っぽいニーナの吐息にくすぐられて、ダークマンは目を細めた。
まだ少しだけ残った理性が脳裏にひらめく。同時に、全く別の衝動が心臓を叩いている。

「ニーナ——」

包帯で分厚くなった手がニーナの頬を撫でた。まだわずかばかり、迷うように。相手をなだめるように見せかけて、本当は自分をなだめている。
自分で自分を褒めてやりたいくらい理性を保っている方だが、物事には臨界点というものがあって、ダークマンが思うにボーダーラインは近かった。
だからその時、不意の物音が教室に飛び込んできた事は彼にとっては救いだったのかもしれない。
キイッという軋み音がどこに起因しているものか、ダークマンにはすぐに分からなかった。鳥の声だろうか、などと間抜けな考えが頭をよぎる。
だがニーナの方は彼よりも少し鋭くて、すぐに背後を振り返った。

「あ、レクターせんせぇ」
「え!?」

慌ててニーナの肩越しに覗くと、確かにそこにはわずかばかり目を細めたハンニバル・レクターが立っていた。
後ろ側の扉の鍵をかけるのを、ニーナはすっかり忘れていたのだ。

「明かりが見えたのでね」

小柄な男は独特の声音でそう言った。
表情はとらえどころがないが、少なくともそこに驚きや非難の色はなく、薄い唇を人差し指の先で軽く叩きながらレクターはいたずらっぽく笑んだ。

「近頃は日が落ちるのが早い、もう外は暗いしあまり遅くならない方がいいんじゃないか? もっとも、そこの先生に送ってもらうというなら話は別だが」
「はーいっ、そうします。先生さよならー」
「ああ、さようなら。また明日の授業で」

怜悧な獣を思わせる、どこか人間離れした瞳が最後にダークマンの顔をおもしろそうに眺めた気がしたが、結局、世界史教師はそれ以上何も言わずに立ち去った。
ニーナがひょいと膝の上から飛び降りた時になって、ダークマンはようやく我に返った。
上履きの足がぱたぱたと床を鳴らす。鍵をかける音。その鋭い音は、ダークマンの脳裏にまるで警鐘さながらに響き渡った。

「ニーナ?」
「レクター先生なら大丈夫。こんなことでいちいち騒ぐような人じゃないから」

いやいや、そういう問題ではなくて。……そう言いたいのは山々だが、ニーナに話を聞くつもりはないようだった。
ついでに窓の施錠を確かめてから、少女は軽やかに振り向いた。ふわり、とプリーツスカートが広がる。

「……と、いうことで」

にっこり。年相応に愛らしい、だがどこか背筋の凍る笑みを浮かべたニーナは、制服のリボンをしゅるりと解いた。

    拍手ありがとうございます!とても嬉しいです!

    小説のリクエストは100%お応えできるとは限りませんが、思いついた順に書かせていただいています。

    選択式ひとこと

    お名前

    メッセージ



    ダークマンペイトン・ウェストレイク
    うりをフォローする
    タイトルとURLをコピーしました