隣人を愛せ

熱かそれとも疲労のせいか、とにかくひどくふらつく頭を抱えたアレクサ・ウッズは、その日、一軒の家の前に立っていた。
重たい腕を上げてインターホンを鳴らすと、いくらもしないうちに小走りの足音と「はーい」という声が聞こえて、ドアが開く。

「レックス!」

中から出てきたのは古くからの友人であるニーナだった。いつもと変わらない顔に出迎えられて、ほんの少し心が軽くなる。

「ごめん……二、三日泊めてくれない?」

ニーナは突然の訪問に驚きこそすれど二つ返事でレックスの頼みを引き受けると、見るからに具合の悪そうな友人を支えて家に入れてやった。
少し休みたいと言うレックスを客用の寝室まで案内してやりながら、ニーナが何気なく尋ねる。

「今度はどこ行ってたの?」
「南極」
「なんきょ……それはまた遠い」
「そうね。とても……遠い場所ね」

帰ってこられたのが奇跡だわ、とレックスは自分の手の平に視線を落とした。
気概の感じられない声はニーナのよく知る『自ら好んで磁石みたいに危険に引き寄せられる』レックスからはほど遠い。
死ぬことすら恐れないたくましいレックス、それなのにこんなに弱気になるなんて、一体どうしたって言うんだろう?
ニーナはいささかの不安と好奇心を煽られ、だがまずは温かい湯を用意してやるのが先だと友人を一人残して階下へと降りていった。


「レックス、お風呂……」

沸いたよ、と友人を呼びにきたニーナは、先程と部屋の様子が変わっているような気がして言葉を切った。
だけど「ありがとう」と微笑むレックスは出ていく前と同じように疲れた顔をしてベッドに腰掛けているし、中途半端に開いたカーテンにもベージュ色のカーペットにもサイドテーブルの上にあるデジタル時計にも変わったところはない。

「あ、ごめん」

友人の訝しげな視線に気づいて、慌てて首を横に振る。

「なんでもない。お湯入れたけど、先に何か食べる?」
「ううん、今はいい。じゃあお風呂使わせてもらうわね」
「うん。あったかい飲み物でも入れとく」

ごゆっくり、と赤い防寒着の背中を見送ったあと、ニーナはもう一度部屋の中を見回した。
——やっぱりなんか違和感があるんだけどな。


熱い湯と蜂蜜入りのホットミルクに全身を暖められたことでようやく肩の力が抜けたか、レックスは「ふう」と胸の中のものをすべて吐き出すと、ソファーの柔らかい背もたれに背中を預けた。
いつもの調子を取り戻しつつある友人に、向かい合って座るニーナも安堵の笑みを浮かべる。

「で、南極のガイドはそんなに大変だったわけ?」
「いろいろあったのよ」
「いろいろ、ねえ」

これははぐらかされたなと思ったが、話したくなればそのうち話すだろうと追求は諦めた。
だけど一つだけ、どうしても気になっていることがニーナにはあった。

「それ、その頬の傷は?」
「ああ、これ……」

異国の文字か模様のようにも見える真新しい傷痕に指先を触れ、レックスは顔をしかめた。
しかしながらこれに関しても今は説明する気はないらしく、彼女は軽く肩をすくめて先程と同じせりふを繰り返す。

「いろいろあったの」
「ふうん……? ま、いいや気が向いたら教えて。じゃあ下に居るからね」

ゆっくり寝てていいよとからっぽになった二つのカップを手に部屋を出ていくニーナの背中に、レックスは「ありがとう」と声を投げた。なにも聞かないでいてくれるニーナの優しさが心から有り難いと思った。

——でもちゃんと話さなくちゃ。少しだけ休んで、そのあと全部打ち明けよう。

レックスは一人頷くと、疲れた体をベッドに横たえた。


マグカップを洗おうとキッチンシンクの前に立ったニーナは、ピンク色のスポンジに手を伸ばしかけてふと顔を上げた。
またしてもあの言いようのない違和感に襲われたのだ。
気味が悪い、と彼女は眉をひそめた。なにせキッチンはまるで普段通りで、レックスが来る前、枯れた花を取り替えようと持ってきた花瓶すらその時のままの恰好でシンクに乗っているのだから。

それでも拭いきれないこの違和感はどこからくるんだろう? 一体どこが違うのかと考えて……そしてふと気づく。“におい”だ。
物の位置が変わっているわけでも、何かが無くなっているのでもなく、ただ普段とにおいが違う。生臭いような、泥臭いような……その出所は不明だが、とりあえず窓を開けようと振り返る。

ところが不思議なことにそこには“透明の壁”があった。訳も解らぬまま背後によろけたニーナの腕がぶつかって、大きな花瓶が落下する。
同時に目の前で青い火花が散り——

心地好いベッドの中、長らく興奮状態だった頭もほぐれてうとうとしかけた時だった。
階下から何かが割れる派手な音が響いてきて、レックスの睡魔はいっぺんに消し飛んだ。
追い討ちのようにニーナの声が鼓膜を叩く。

「レックスー! なんかサムライっぽい爬虫類がいるー!」

できればこのままなにも聞かなかったことにして眠ってしまいたいと、疲労困憊のレックスは低く呻いた。


声音こそ静か、だがどこからどう見ても怒り心頭のレックスが巨体の生命体を睨み上げる。

「スカー、隠れててって言わなかった?」
「え、友達なの?」

ニーナの視線が二つの顔の間を行き来する。レックスの知り合いって変わった人が多いけど、この人は間違いなくその中でも一番変だな、とニーナは思った。
まだいくらかの警戒心を宿した瞳でスカーを見上げている彼女は、銀色のマスクの額にレックスと全く同じ模様の傷があるのを見つけた。

「……その頬の傷どうしたんだっけ?」
「いろいろあって……」
「うん、内容は全くわからないけど確かにいろいろあったことだけは理解した」

そう言ってニーナは苦く笑う。

「ごめん、ちゃんと話すつもりだったんだけど。自分でもうまく整理できなくて、時間が欲しかったの」

そうだ、早く正直に話すべきだったのだ……ニーナはいつだって自分の一番の理解者で、味方だったではないか。
ところが次のニーナの一言によって、レックスの心につかの間沸き上がった罪悪感もたちまち消し飛ぶこととなる。

「結婚の相手が宇宙人でも私は応援するよ!」
「……はい?」

違うの? とニーナが首を傾げる。

「なんでそんな突拍子もない方向に流れちゃったのかわからないくらい違う」
「《結婚》?」

今まで黙って事の成り行きを見守っていたスカーが、耳慣れない単語に反応して口を挟んだ。

「びっくりした! 喋れたんだ……っていうかもしかして今の私の声? 録音できるの?」
「《録音できるの?》」

またしてもノイズ混じりのニーナの声がマスクから発せられる。スカーがどことなく誇らしげな様子であることに気がついたのはレックス一人だった。

「おお、すごい……けどなんか気持ち悪いな」

そう言ってまじまじと銀色のマスクを眺めるニーナの表情には、もはや恐怖の色は見当たらない。
と、ふいに散らかったままのキッチンの惨状を思い出したか、ニーナは「ああ、そうだった」と手を叩くとまるで何事も無かったかのように花瓶を片付けるために引き返していった。
その背中にスカーが物珍しげな視線を投げる。もっともその中には「マイペースすぎる」との呆れも多分に含まれていたが。

「いい加減っていうかおおらかっていうか、よね……」

レックスは肩をすくめ、それからスカーの方に向き直ると厳しい表情で念を押した。

「とにかく大事な友達なんだから絶対に怪我させたりしないでよ? いい?」

その時、友人の声がレックスを呼んだ。振り向くと裏口から外を覗いているニーナの背中が見えて、少しだけ開いたドアの隙間には——細長い頭がぴょこぴょこと揺れていた。

「ねー、今度は外に頭が焼きナスみたいな生き物がいる」
「ニーナそれ絶対中に入れちゃダメ!」
「あ、ごめんもう入れちゃった」
「どうして!?」

ニーナは自分の隣にちょこんと座るトカゲに似た怪物を困ったように指差して「や、だって『絶対に悪さはしませんし噛み付いたりもしませんから』って顔してたし……ほら」
「……狼と七匹の子山羊って童話知ってる?」
「知らない」
「でしょうね……」

宿敵に今にも飛び掛かりそうなスカーを片手で制しながら、レックスはもうどうとでもなれと思い始めている自分に気づいた。
ニーナの脳天気な声が、諦めを更に加速させる。

「よく見たらちょっと可愛いなコイツ。この網目模様、傷? うーん、じゃあ名前はグリッドで」
「ちょっと待って、飼う気じゃないでしょうね」
「え、ダメ? 飼い主いるのかな」
「……いい、もう好きにして……」

私寝るから、そう言い置いてふらふらと寝室に向かうレックスを、スカーだけが同情の目で見つめていた。

半日たっぷり眠った末にようやく目を覚ましたレックスは、ニーナとグリッドがすっかり意気投合しているのを見てますます頭痛を悪化させたのだった。

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