飼育員と嵐の夜

コスタリカのカリブ海沿岸を襲ったハリケーン・ネイトは、そのまま南へそれるはずだった。
だけど悲しいかな、いつの世も天気予報なんてあてにならないものだ……それにしたって、よりによってここヌブラル島の方向に進路を変えるなんて。
せめて上陸を遠慮してくれたことに礼を言うべき?
いいえ、やめておこう。だって結局、島は暴風雨の影響を免れ得なかったのだから。

閉園後の時間帯だったのは不幸中の幸いだった。
だがそれでも、宿泊客に対する安全確保や状況説明にスタッフたちが追われることに変わりはない。
フェリーの欠航に激怒している客たちのフォローも必要だし、さらに敷地内の被害状況の把握や動物たちの安否確認も同時に行わなくてはならないとあって、ジュラシック・ワールドは稀に見るカオス状態に陥っていた。
ノースカロライナ育ちの私にとってハリケーンも豪雨もそれほど珍しいものではないとはいえ、まさかヌブラル島でこんな規模の災害に見舞われるとは。

激しい追い風が吹きつけて、もはや意味をなさないレインコートが裏返る。ともすれば押し倒されてしまいそうな強風と視界をふさぐ大雨に、歩き慣れているはずの通り道が果てしなく広大に感じられた。
ポケットから取り出した無線機の電源を入れてみる。かすかな望みは無慈悲なノイズにかき消された。

「まだ通じないか……」

私を転ばせようと躍起になって背中を押してくる見えない手にいらだちながら、ぬかるんだ地面をぐっと踏み締める。
私がここ——ヴェロキラプトルの飼育施設に駆けつけたのは、さかのぼること10分前。
追ってオーウェンをはじめとする手の空いたスタッフ何人かが合流してくれる手はずになっていたのだが、天候が急降下したせいで誰も身動きが取れなくなってしまい、私はたったひとりでこの飼育場に閉じ込められたというわけだ。
目下、私が協力しているIBRIS計画(Integrated Behavioral Raptor Intelligence Studyヴェロキラプトル総合研究計画)はパーク本体とは切り離された極秘プロジェクトということもあり、無関係な人間が誤って立ち入らないよう、施設は島の東端にひっそりと位置している。
したがって、偶然にも誰かが立ち寄ってくれたり、助けが来る可能性はゼロだった。
ふう。ここまで車を飛ばしてこられたのは奇跡だ。振り向くと、手招きするみたいに揺れる木立のあいだに、さっき通ってきたばかりの未舗装の車道が見えたが、その存在はすぐに意識から追い出した。
無理だ。いまさら引き返せない。

荒れ狂う海がうなりを上げている。すぐそばの崖に叩きつける波や風が獣の咆哮にも似た不吉な音をとどろかせるたびに、無意識にそちらの方向を振り返ってしまう自分に腹が立った。そんなことしてたって事態がよくなるわけじゃないのに。
壊れたり飛ばされたりしては困るものを荷締めベルトで固定したり、倉庫の中に放り込む作業は目標の三分の一も終わっていなかったが、いよいよ強まりつつある風に危機感を覚えた私は自分の退避を優先することにした。
乗ってきた4WD車に駆け戻ると、目当ての建物に向かって急いで——だが慎重にタイヤを転がす。
その間にも、パドックを取り囲む森の木々が一つの生き物のようにうねり、雄叫びを上げ、いちいち私をびくつかせる。
ここの地形は風の影響を受けやすいせいか、アリーナは惨憺たる有様だった。土の地面はえぐり取られ、茂みはぺしゃんこに押しつぶされ、先月植えたばかりの若木も無残な様相を晒している。
だが私を一番ぞっとさせたのは、改築工事のために積み上げてあった無数の鉄筋が、地面に深々と突き刺さっている光景だった。まるで槍の雨でも降ったかのように。

y’allみんな! 調子はどう?」

厩舎の扉を開けて中に駆け込んでいったとたんに、四頭のラプトルが一斉にこちらを振り返った。
眩しい室内灯の下にもかかわらず瞳孔が開いているのは警戒心のせいだろう。こんな時間に私が顔を出すことなどめったにないから無理もない。
彼女らはいつものように一頭ずつ別々のサークルに閉じ込められている。喧嘩をしないようにとの配慮だが、鉄柵越しに不安げな目配せを交わしあう姿を見ていると、なんとも言えず胸が締め付けられてしまう。

「ごめんね、オーウェンもバリーも来られなくなったの」

いかにも何か言いたそうに牙をむき出して唸るブルーは、私の声に反応してますます苛立ちをあらわにした。頭を撫でて慰めてやりたいが、それは無理な話だろう。
隣のデルタもかなり機嫌が悪そうだ。それにチャーリーは狭いサークルの中をぐるぐる歩き回ってばかりだし、エコーにいたってはすっかり興奮してしまい、鉄柵に無意味な体当たりを繰り返している。
こんなに激しい雨風が吹きすさぶ中でも、入り口に錠を降ろす金属音はやけに大きく耳に響いた。その音に、私だけでなくラプトルたちまでぎくりと身をこわばらせた。

「ごめん、ちょっとだけここにいさせてほしくて」

良くない行いなのはわかってる。
マニュアルには有事の際には内線電話が使えるスタッフルームで待機するよう、はっきりと記されているのだから。
だけど狭い部屋でひとりぼっちなんてあまりに心細いし、あんなプレハブ小屋より厩舎の方がずっとずっと堅牢に造られていることを私は知っている。

「服重っ……」

たっぷり水を吸った服から苦労して腕を引き抜きながら、ついつい長いため息をこぼしていた。
それはこのひどい現状から受けるストレスのせいでもあり、濡れた靴が気持ち悪いからでもあるし、大暴れするエコーが立てる物音が神経に障るせいもある。
雑巾みたいにぐったりしてるワークシャツとハーフパンツを脱ぎ去って、ここに来る前にスタッフルームから持ち出してきたボストンバッグを引き寄せた。
飲用水や避難用品を詰められるだけ詰めたバッグは、今にも持ち手がちぎれてしまいそうなくらい重たい。私はその中から乾いた服とチョコレートビスケットのパッケージを取り出した。
今は食べるくらいしか出来ることはないし、思えば朝から何も口にしていない。

「はー、ほんとどうしようね。誰か早く来ないかな?」

ここならひとまず安全とはいえ、孤立無援の身の上に変わりはないわけで……。
心細さと退屈から思わず漏れたひとりごとに、日頃からおしゃべりな末っ子がクルルッと相槌を打ってくれた。

「チャーリーも欲しい? オーウェンのロッカーにあったやつだよ」

破いたパッケージから大きなビスケットを一枚取り出して、チャーリーの鼻先に近づける。
1時間もあればこの暴風雨もおさまるだろうという楽観的な予測が裏切られたとしても、この先三日間はしのげそうな量の食糧を溜め込んでおいてくれたオーウェンに感謝したい。甘いお菓子ばっかりだけど。

「きみたちはチョコかかってないやつね」

鉄格子に鼻先をねじ込むチャーリーの息が右手をくすぐってくる。彼女は訝しげに、それでいて興味津々に匂いを嗅ぎ続けていたが、ついに意を決したかのように長い舌でビスケットを絡め取った。

「いいこ、いいこね」

柵の隙間から手を半分だけ差し入れて首の後ろを撫でても、チャーリーは逃げたり噛み付いたりするそぶりは全く見せない。よしよし、餌をもらう時のルールはちゃんと身についてる。
待ちきれないように鼻腔を鳴らすエコーにも同じビスケットを与える。さっきまであんなに暴れていたわりに、特に抵抗もせず首を撫でさせてくれた。

「デルタ、デルタ! はい、こっち向く。ちゃんと私の目を見る」

この子は難敵だ。牙を剥いて唸るデルタがギャッギャッという威嚇の声を発しながら左右に激しく頭をふりたてる。
私は安全な範囲でできるだけ柵に顔を近づけると、彼女に向かってゆっくりとまばたきを繰り返してみせることで、こちらに敵意がないことを示し、落ち着くように言い聞かせた。
これは主にネコに対して効果のあるボディーランゲージだが、幼い頃からこのコミュニケーション手法に慣れ親しんできたデルタはその意味をちゃんと理解できるはずだ。

「そうね、いいこ」

不満そうにしながらもやっと癇癪をおさめたデルタの鼻先にビスケットを持っていく。渋々といった様子で、彼女は私の手からおやつを受け取った。

「すぐお天気になるからね。大丈夫だよ」

だがその時、私の希望的観測を打ち砕くかのような轟音が屋外からとどろき、壁が揺れた。まるで巨人が力任せにノックしているような音だ。
同時に厩舎全体が真っ暗闇に包まれたところを見ると電気系統がやられてしまったらしい。
今にも飛び出しそうな心臓をとどめておくのに必死で声を出せなくて、かえってよかったかもしれない。悲鳴なんかあげてたら、ラプトルたちをひどく興奮させただろうから。

「わ、危な……」

首すじに生暖かい鼻息が吹きかかってはじめて、自分がブルーのサークルに背中を押し付けていたことに気がついた。
急いで鉄柵から離れると、あと少しのところで私を噛み損ねた長女が不機嫌な声を絞り出す。
その声が私を現実に引き戻してくれて、多分あの音は北欧の巨人なんかじゃなく、工事現場から吹き飛ばされたトタン波板か、あるいは別の何かがぶつかった音だろうと考えた。
平気平気、全然平気。ほら非常用の発電機が動きはじめたし、ここはそう簡単にぺしゃんこになったりしない。食べ物と水もあるし、風がおさまれば無線だって通じるようになる。
だからそれまでは、私がこの子たちを守らなければ。

「チャーリー? チャーリー、大丈夫だからね……お姉ちゃんたちもここにいるでしょ?」

ふたたび落ち着きを失ってサークルの中をぐるぐる歩き回りはじめた末っ子に声をかけてから、ふと視線を戻すと、ブルーが心配そうにチャーリーの様子を伺っていた。
ああ、この優しさの何百分の一かだけでも私に向けてくれたらどんなにいいか。
ブルーの水入れがからっぽになっていたので、ミネラルウォーターのペットボトルを開けた。気高い長女は私から食べ物の施しを受けることを断固として拒否したが、水を補充することは許してくれた。

疲れをごまかすために、首をそらして天井を仰ぎ見る。非常発電用の回路に切り替わったことで照明がやや薄暗くなっていることに気づいて、そもそも発電機はあとどれくらい保つものなんだろう、と考えた。
ただでさえ予算が限られたプロジェクトだ、緊急用設備のグレードなんてたかが知れてる。
照明はともかく、万が一完全に電気が止まったらラプトルたちのサークルの電子ロックが作動しなくなるのが一番の懸念事項だった。かんぬき錠と鍵のアナログロックも併用してはいるが、ラプトルの知能と身体能力の高さは侮れない。
壁の高い位置にある窓——間違ってもラプトルがよじ登れない高さで、体をねじ込むこともできない大きさ——越しに、荒れ狂う外の様子が窺い知れる。小石と見紛うほどの大粒の雨にさらされ続ける窓はいつ割れてもおかしくないくらいだ。

鉄柵に何かがぶつかって揺れる甲高い音に、またブルーが私を噛もうとして体当たりでもしているのだろうと思い、後ろを振り返った。
案の定、ブルーの可愛らしい鼻先が柵の隙間から突き出ている。鳴き声も荒々しく、だが意外にもその視線は私の方ではなく、厩舎の出入り口に注がれていた。
どうしたんだろう? それにあの音はなんだろう? 何かがぶつかるみたいな断続的な音。そして合間に挟まる別の音。人の声みたいな……。
扉の向こうから聞こえてくる物音の正体がなんなのか、すぐにはわからなかった。
だって相変わらず風の音がうるさいし、雨だって降り続いている。それにまさか思わなかったんだもの、こんなところに誰かが来るなんて。

「おい! アオイ? いないのか、アオイ!」

やっぱり人だ!
慌ててドアに駆け寄って、鍵を外す。とたんになだれ込んでくる外の空気と暗闇、今にもなぎ倒されそうに暴れる木々のうめき。そして極めつけの激しい雨に、目を開けていられなくなった私は咄嗟に顔をそむけた。
ぐい、と体を押し戻されてバランスを崩しそうになる。だけどそれは風の力じゃなくて、人の手によるものらしかった。
厩舎に飛び込んできた人物は、自分の後ろで扉を再び施錠した。

「やっぱりここにいたか」
「オーウェン!」

頭からつま先まで全身びしょ濡れ状態で立ちはだかる彼はまるで『13日の金曜日』の殺人鬼みたいだ。
不機嫌そうな視線が私の目から離れて、もっと下の方へさまよった。てっきり私が着ているTシャツにプリントされた、3体のバウムクーヘンが手を取り合って踊っているイラストに気を取られてのことかと思ったので、続く彼の言葉は意外なものだった。

「怪我は?」
「平気! みんな大丈夫だったよ」
「で、アオイも無事なんだな?」
「うーん、多分この中でエコーの次くらいに元気」

いつだったか、誰かがオーウェンのことを『不遜なやつ』と呼んでいた。
陰口は好まないが、正直なところ確かにそうだと感じることもある。特にここに転職したばかりの頃の彼の私に対する態度はなんと言うか……なかなかにインパクトのあるものだったし。
彼はいつでも自分の考えを持っていて、自分のなすべきことを理解しており、自分で設定した高い目標に向かってひたむきに突き進む。そのある種の柔軟性に欠ける態度や、他者の評価に依存しない性格が、見る人の感性によれば不遜という言葉に集約されてしまうのだろう。
ただ私はオーウェンのそういうところこそが、同僚としても人間としても頼れる部分だと思っている。
南部風に言えば、『カウボーイハットばかり立派で牛を持っていない』見掛け倒しの人たちよりもよほどいい。
そんな真っ直ぐ伸びる鋼のようなオーウェンが、今はいかにも気が抜けたように、ふーっとため息をついている。中に水の溜まったブーツをちゃぷちゃぷ鳴らしながらブルーのサークルに近づいて、愛しい我が子をなだめる親そのものの顔つきであれこれ話しかける姿が可笑しかった。

「なんで来てくれたの? 危ないのに」
「“なんで”? だって後から行くって言っただろ」
「ふふ。うん、そうだよね。確かにそうだった」

どうして笑われているのかわからないと言うようにムッとしているオーウェンと、そんな彼に便乗して私に怒っているブルーと、そして他の姉妹たちの顔を見比べて、いつの間にか自分の両肩からすっかり力が抜けていることに気がついた。

「じゃあ、雨が止むまでピクニックでも?」

私が差し出したチョコレートビスケットを、オーウェンは迷うことなく受け取った。

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