Calling

7月の突風が髪をさらう。濡れた木々と土の香りが私をほんのひととき取り巻いて、そしてそのままどこかへ運び去られていく。
今日は昼過ぎには気温35度を超えるとの予報が出ているが、少なくとも太陽が上りきらない今は過ごしやすく、昨晩のにわか雨でぬかるんだ地面にときどき足を取られることを除けば非常に気持ちのいい朝だった。
アリーナの頭上に張り巡らされたキャットウォークに続く鉄骨階段も雨の名残りでまだ光っていたため、いつもなら一段飛ばしで駆け上がるそこを今日は慎重に登っていく。
その途中で視界の端に何かが動き、はたと足を止める。ブルーだ。
ちょうど私の足元あたりで、青っぽい身体がごそごそ動いている。
手すりからそっと身を乗り出して観察してみると、ブルーは私たちが『かくれんぼ』と呼んでいる追跡訓練をする時のように鼻先を地面にこすりつけて、何かの匂いをさがしている最中らしかった。
彼女はまだ私の存在には気付いていない。無視してるだけかもしれないが。

「ブルー!」

大きな瞳の顔がぱっと持ち上がる。
アリーナの中とこちら側とを隔てる鉄柵越しにとどろく低い唸り声があいさつ代わりだった。
(いつものことながら)ブルーに歓迎の気持ちはさらさらないらしく、自分がいかに嫌われているかを改めて思い知らされてちょこっとだけ落ち込みそうになる。
私は階段を数段降りると、ブルーと目線の高さが同じになるようにした。

「ブルーちゃんおはよう。元気? もうすぐご飯の時間だよ」

返事は血気盛んな吠え声だけ。
おかしいな、私はこの子たちがまだミルクを飲んでいた頃から一緒にいるはずなのに、心の距離が一向に縮まらないどころか離れていっている気さえする。
怒声の奔流を浴びながら、私はある一つの仮説を検討していた。
それは最近になって芽生えた疑惑で、まだ誰にも話して聞かせたことはないものの、あながち的外れでもない発想だと思う……そう、もしかするとブルーはオーウェンのことを親ではなく、パートナーとして愛しているのでは?
ヒトを生涯の伴侶に選ぶのは、飼育下の動物には珍しいことではない。特に鳥類はその傾向が顕著で、前の職場で世話していたズグロシロハラインコは私をパートナーに認定していたが非常に嫉妬深く、私に近づく他のインコや人間全てに対して攻撃を仕掛けていた。

「私に怒ってもオーウェンは昼まで来ませーん」

そのとき、突然木陰から緑色の身体が躍り出た。
あいさつもなしにいきなり攻撃姿勢に入ったデルタが姉に負けじと吠えかかってくる。敬愛する姉が私にいじめられてるとでも思ったのだろうか。
ブルーがその長い尾を振り上げるとデルタも同じように尻尾を上げて、ブルーが唸れば続けて唸る。何をするにも姉を真似るデルタがおかしかった。
何人かのスタッフがこちらを振り返って心配そうな視線をよこすので、私は彼らに向けて「平気です」のハンドサインを送ってから、青と緑の恐竜二頭にまたあとでねと告げた。


昼の2時にさしかかる頃、私はアリーナに併設されたガレージほどの広さのバックヤードで、来週行われる視察に向けてまとめた資料をバリーと一緒に再確認していた。
この空間は“檻”の呼び名で通っていることからも分かる通り、動物園で使われる大型肉食動物用ケージのような鉄柵で作られており、風通しがいい上に日陰も確保されている。
それでも暑さは暑さに変わりなく、額からも背中からも大量の汗が吹き出した。
ときおり質問を挟みつつ、うんうんとうなずきながらページをめくるバリーも大粒の汗を浮かべている。残念ながら天気予報が外れることはなかった。

「そういえば、昨日デルタと一緒に寝る夢を見て」

短い沈黙を埋めるために私が言うと、資料の一文一文をじっくりチェックしていたバリーはぱっと顔を上げて、白い歯を見せて笑いだした。

「そりゃ気の毒に。食われたか?」
「全然! すっごく可愛かったよー。狭かったけど」

私のベッドで猫みたいに体を丸めるデルタの姿を思い出すと、ただの夢だとわかっていても優しい気持ちがこみ上げた。
太い背骨がかすかに浮き上がるしなやかなボディラインや、ごそごそ動く太ももに、軽く曲げた前脚の爪の様子までもがまだ頭の中に鮮やかにこびりついている。

「それでね、首の後ろをこう、撫でてやったら嬉しそうな顔してくれて」
「デルタはそこ撫でられるの好きだもんな」
「まぁ私には撫でさせてくれないけどね」

バリーは愛想よくうなずきながら聞いてくれていたが、その視線がふいに私から外された。驚きに見開かれた目はどうやら私の背後にある何かを見ている。

「噂をすればなんとやらだな」

後ろを振り向いて、いつのまにかデルタがすぐそばまで忍び寄っていたことにやっと気がついた。
強い日差しに目を細める彼女の上機嫌な足取りは、ついさっきあんなに威勢良く私を威嚇した出来事なんてすっかり忘れてしまったかのようだ。
デルタが私と目を合わせてくれたのは瞬きのあいだ程度の短い時間だけだったし、『フシュン』という鼻息はどこか面倒臭そうでさえあったが、私はそれを彼女なりの挨拶なのだと好意的に受け止めることにした。
なぜかバリーとは長い長いアイコンタクトを交わしてるし甘え声まで発しているのは……気にしたら負けになるのでやめる。

「また後でなデルタ。いい子にしてろよ」

名残惜しそうなデルタを最後にひと撫でしたバリーが私に向き直り、ファイリングした資料の束をかかげてみせる。

「じゃ、これありがとな。急かして悪かった」
「誤字とかあったらごめんね。いつものことだろうけど」

長身に見合わず軽やかな足取りのバリーが“檻”を出て行って、再び扉が閉まると、ここには私ひとりと——まだ鉄格子のそばで鼻を鳴らしているデルタだけになった。
てっきりまた唸るか吠えるかしてさっさとアリーナの草むらの方へ走り去っていくだろうと思われた彼女がこの場に留まったままでいる事実は、私を少なからず戸惑わせ、同時に判断力を鈍らせた。

「デルタちゃん」

鉄格子越しにわずか数十センチ……今にも触れ合えそうな距離にいる彼女の匂いがする。
ヴェロキラプトルは強い体臭を発しないが、ここまで接近すると、乾いたおがくずのような匂いに混じって水辺の生き物に似た生臭さをわずかに感じ取れた。
水浴びしたばかりの背中には汚れひとつなく、つややかに輝いて眩しいくらいだ。
デルタが何かを警戒するように急に後ろを振り向いた。長い尻尾を水平にピンと伸ばしてかすかに揺らしながら、アリーナの奥に目を凝らしている。
一度だけ誰かの鳴き声が聞こえてきて、デルタも声を返したが、それは集合をうながす号令ではなかったらしい。再びこちらに向き直ったデルタの口が薄く開いて、また閉じる。

「ん? デルタその音は? なに?」

ギョリギョリという聴き慣れない音……どうやらこの子が発生源らしいが、奥歯を使っているのだろうか。鳥がくちばしをこすり合わせる音に似ている。
デルタは昔から、他の姉妹よりも音や声に対する探究心が旺盛だ。
小さいころは音の出るおもちゃが大好きだったし、大人になってからは砂利を踏み鳴らして遊んだり、ダンプカーの駆動音に合わせて飛び跳ねたり、拾った木の枝を鉄柵にぶつけて大きな音を出してスタッフを飛び上らせたりなんてこともしょっちゅうある。
また、自分独自の鳴き方(鳥類で言う“さえずり”にあたるだろうか)を試行錯誤する能力にも長けていた。
この歯ぎしり音も彼女なりの発明なのだろう。
せっかく話しかけてくれたチャンスを逃したくはなかったけど、人間の歯で大きな音を奏でるのは難しそうだったので代わりに口の中で舌を打つ。
すると興味を惹かれたらしいデルタが小首を傾げて顔を覗き込んでくる。

「これ気に入った?」

もう一度、二度、舌を鳴らす。

「でもまぁ、女の子が舌打ちなんかしたらオーウェンママが怒るだろうし。これは真似しないほうがいいかもね」

私は胸の前で両手をパーの形に広げて『おしまい』のジェスチャーをした。遊びの時間やおやつの時間の終わりにいつもそうするように。
だがデルタは納得いかないらしく、狭い格子の隙間に無理やり鼻先をねじ込んできたので、私の顔面にまともに鼻息が吹きかかった。
この子の方からここまで接近してくるなんて珍しい。よほどさっきの音が気に入ったようだ。
不満げな唸り声を絞り出す喉がヒクヒクと動いている。ついついいたずら心が芽生えてそこをつついたら、デルタは素早く顔を引っ込めて、しゃんと背筋を伸ばしたまま鳥みたいにあわただしい動作で首をかしげた。

「ふふ。そこまでびっくりしなくても。ごめんね。もうしないからこっちおいでよ」

そのとき、ふたたびアリーナの奥で誰かが吠える声。
デルタはくるっと振り向いて、やや前屈姿勢でその方向に目を凝らしている。だが後ろ足が地面を蹴る前兆はない。

「あれってデルタを呼んでるとかじゃないの? 行かなくて大丈夫?」

私の言葉にデルタがふたたび頭をかたむける。焼けつく日差しに照らされて瞳孔を絞った彼女はもう唸ってはいなかったし、歯を鳴らすこともなかった。
代わりに聞こえたキュロロロ、というかすかな声は、まるで誰にも聞かれてはいけない内緒話をするみたいだった。

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