助手の失くしもの

その朝、いつものようにラボに出勤してきた部下の姿を見て、ジョナサン・ゲディマン博士は二つの違和感を抱いた。
一つ目は彼女がひどく浮かない顔をしていること。
二つ目は彼女が白衣を着ていないこと。
おはようございます、と怒ったように眉間に皺を寄せたまま挨拶するニーナは腰から下こそ規定通りの白いパンツ姿であるものの、その上に羽織るべきであるはずのドクターコートは身に着けていなかった。

「君は……白衣を着ろと何度言えばわかるんだ?」
「違います。ないんです、上着だけどこにも」
「失くしたのか」
「まさか。ただ見つからないだけで」
「いいな、それを、一般的には、失くしたと、言うんだ」

可愛げのない態度に思わず語気が強くなる。それでもまるで堪える様子もないのを目にして、彼はいよいよ盛大に溜め息をつきたくなったが、隣のデスクで作業中のカーリン・ウィリアムスン博士は慣れたもので、クスクス笑うばかりだ。
やや臆病な性格だが、穏やかで優しいカーリンはニーナに向かって微笑んだ。

「でも普通にしてて失くすってことはあまり考えられないわよね、確かに」
「でしょう? だから失くしたんじゃなくて……」
「もういい。スペアはどうした? それを着たまえ」
「この間ぶちまけられた染料がどうしても落ちなくて再発注してます」

ニーナの恨みがましい口ぶりに、パソコンのキーボードを叩いていた手を止めて、カーリンが困ったように応じる。

「ニーナも? 私のもそうなの。どうにもならないって言われて」
「まさか盗られるってこともないだろうし」
「でもほら、前に……」
「“トリッシュブチ切れ事件”のことですか」
「そんな風に呼ばれてるの? あの事件」
「私の中では」

その呼び名はともかくとして、不快な事件の顛末を思い出したカーリンがそっと眉根を寄せる。
さかのぼること半年前、オリガ号に常駐する兵士のひとりが、同僚の女性兵士の下着を盗むという愚行に走った事件は誰の記憶にもまだ新しい。
身近なところではインターンとして研究に参加している大学院生のトリッシュも被害に遭ったが、しかしニーナは事件そのものよりも、日ごろから忍耐強くておとなしいトリッシュが大声で喚き散らし、本気で怒りを爆発させた出来事の方を強く印象に残しているらしかった。

「けどカーリンさん、失くなったのは白衣ですから」
「さすがにないかしら」
「ないですよ。どんな高次元の変態ですか、それ」

咳払いをひとつして、ゲディマン博士は女性二人の会話に割り入った。

「仕方ないな、探すのはあとだ。今日は私のを貸してやるから——」
「いやです」
「おい」
「いやです」
「なんだそのよどみない即答は」
「よそのラボから借りてきます」
「待て」
「いやです」


苦手とするゲディマン博士から距離を置くように部屋の隅の定位置でうずくまっていた一匹のゼノモーフが起き上がり、音もなくニーナの足元に忍び寄ったのは、そろそろ11時に差し掛かろうかという頃だった。
小柄な身体とそれに見合わぬ長い尻尾を持つ彼女は、特別研究対象としてこの第三ラボで放し飼いにされている、肩書き通り“特別”なゼノモーフだ。

「入る?」

彼女に気づいたニーナが椅子をちょっとずらして通り道を作ってやると、明るい茶色をしたニューウォーリアーはそそくさとデスク下に潜り込んだ。
ギュー、ギューという満足げな声が暗がりから聞こえてくる。ニーナが片手を差しのべると、また鳴き声とともに手のひらに鼻先が押し当てられた。

「ちゃんとご飯は食べた?」

返事の代わりにゼノモーフの細長い頭が脚の間からにゅっと飛び出す。唇の両端がつり上がった、笑顔にも似た表情でニーナを見上げている。

「おいしかったね?」

フシュ、と息を吐き出す音。
それが肯定と満足の音色であることを確認して、ニーナはそっとゼノモーフの喉をくすぐった。
そこでパソコンがメールの着信を知らせ、若き研究者の頭はたちまち仕事モードに切り替わる。

「またあとでね」

遊びの時間はおしまいとわからせるために軽く鼻先をつついて合図を送れば、ゼノモーフも心得たものですぐさまごそごそと体を丸めて眠りの体勢に入る気配がした。

数時間後、疲れと達成感を滲ませた溜め息が聞こえてきて、ニーナがうしろを振り向くと、華奢な肩を自分で揉みほぐすカーリンと視線がぶつかった。
白髪の女性博士はいつものように優しい笑みを浮かべた。

「もう1時半ね。そろそろ休憩にしましょう」
「二人とも先に行っててください。これだけ送信したらすぐに行きます」

食堂に向かう博士とカーリンを見送り、書き終えたレポートの最終チェックを急ぐニーナの足元がにわかに騒がしくなる。
大きなあくびのような噴気音はゼノモーフが背中のパイプから空気を出す音だろう。
ギュルギュルと喉を鳴らす音色がそれに続いて、「おはよう」代わりの挨拶をよこした。
しなやかな体がデスクの下からするりと這い出してきて、やる気にみなぎる全身を震わせた。薄いゴムのような唇は相変わらず笑顔を模倣している。

「一緒に行く?」

ぱたぱた床を叩く尻尾の意味は考えなくてもわかった。一目散に戸口の方へ向かう彼女はきっと、ダメだと言われてもついてくるだろう。
と、空っぽになったデスク下になにか見慣れないものがちらついた気がして、不思議に思ったニーナは体を折り曲げそこを覗き込んだ。
すると——

「あ、あった」

薄暗がりに、べとつく体液まみれになった白衣がうずくまっていた。

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