After Valentine

2月15日、曇り。隠れ家の炭坑を二人して片付けている最中に、ガスマスクが突然言い出した。

『今めっちゃ食いたいもんあるんやけど』
「ああ……」

チョコレートでしょう、どうせ。
昨日、お祝いの名目で遊びにきていたジェイソンやマイケルが散らかしたもろもろを所定の場所に戻したりゴミ袋に突っ込んだりしながら、私が真っ先に思い浮かべたのはもちろんそれ。
そういえば毎年一応の儀式として渡していたチロルチョコを今年はまだ渡していない。と、言うか、買っておくのを忘れてた。
なるほどそれで遠回しに催促してるってわけ。ハリーにも可愛いところがあるもんだ。
よしよし、お仕事お疲れさまのねぎらいもかねて買ってきてやろうじゃないの。

「なに? 買ってきてあげるよ」
『にぼし』
「よし、わかったにぼし……にぼし!?」

迅速に二度見したけどホワイトボードに書かれた黒い文字は間違いなく『にぼし』だったので、コイツはいよいよダメかもしれないと思った。


それがおよそ40分前の出来事で、優しい私はたった今ハリー流に言えば「なんでやねん」と思いつつも買い物を終えて戻ってきたところ。

「もー、雨降るってわかってたら絶対行かなかったのに。感謝してよね」

帰りの道すがら、急にぱらつきはじめた小雨で水玉模様になった紙袋を、私はハリーの胸に押し付けた。
まったく、ただでさえこんな暗くて汚くて寒い場所で散々働かされて疲れてるっていうのに。
なのにこいつときたら「ハイハイ」とばかり頷いたきりもうにぼししか眼中にない風で、せっかくの休日をなんでこんな奴と……なんてちょっと後悔すら覚える。
しかも小魚がぎっしり詰まったパッケージをかかげてウキウキしちゃってるハリーは殺人鬼として情けない。非常に情けない。

木箱をひっくり返して椅子にして、腹いせにハリーの着替えを座布団代わりに尻に敷くかたわら、“誰もが恐れる残虐な殺人鬼”はさっそく一本目を手に……
あれ? 待って、この流れってもしかしてマスクの下が見られるってこと?
我ながら単純な私は、さっきまでの不満も忘れて身を乗り出した。黒い手袋がにぼしをつまみ上げ、いざ口元まで持ち上げる。そしてとうとうハリーは禁断のガスマスクに手を、

『あかん食えへん』
「今気づいたの!?」

かけなかった。
そう、奴はすっかり忘れていたのだ。自分がマスクを着用していることを。

「とうとうハリーの中の人が見られるのかと期待したのにぃ」
『アホかそんなもんおらへんわ。俺の本体はツルハシやねんで』
「マジかよ」

ハリーはなおも残念そうに干からびた魚とにらめっこしている。多分、私がいるから困っているのだ。ここに一人きりだったら迷いなくマスクを外しただろうか? 仲良しの他の殺人鬼相手だったら?
私はガタガタとうるさい椅子をハリーの近くまで引きずっていき、その真っ暗闇のレンズを覗き込んだ。案の定、歪んだ私の姿が映っているだけだった。
私はハリーの眼の色を知らない。鼻の高さも、顎の形も、睫毛の長さも知らない。
同じように木箱に腰を下ろしたハリーは突然のことに驚いておおげさに上体を反らすものだから、あやうくひっくり返りそうになっている。その無様さがなんともおかしい。

「ねぇー、いいじゃんちょっとだけ見せてよぉ。私とハリーの仲じゃん?」

すると急に、シュコーシュコーあれほどうるさかった呼吸音が完全に止まった。にぼしをつまんだ指先も、蝋人形みたいに動かない。

「あれ、ハリーさーん? 息してる?」

もしかして死んだか。マスクの口元あたりに手のひらをかざしてみたら、思いっきりのけぞって避けられた。よかった生きてた。しかもコレ意味なかった。あとのけぞりすぎてマトリックス寸前になってる。

『どんな仲やねん』

やっとのことでハリーがかかげた書きなぐりは暗号すれすれのひどい有り様だった。
もともと字がうまいとは言えない奴だけど、ここまでのは初めて見たってくらいの。ちゃんと本人にも自覚はあるらしく、ホワイトボードはすぐに伏せられた。

「往復40分かけてわざわざにぼしを買いにいってあげるくらいの仲でしょ?」

ハリーの手から奪い取ったにぼしを二人の間でふらふら泳がせつつ、だんだんこの状況が楽しくなってきた自分に気づく。込み上げてくる笑いを抑えきれなくて、続く声は少し震えていた。

「ねー、ありがたいと思うでしょー? こんな可愛くて優しいニーナちゃんが友達でよかったって思うよねー?」

全部見せろとは言わないからさあ、なんてなおも食い下がる私の声が静かすぎる炭鉱の壁に跳ね返る。ハリーはなにも言わないが、その心が揺れ始めているのを感じた。

「チラリズム! ハイチラリズム!」
『意味わからん手拍子やめぇや』

ため息ひとつが通り抜け、とうとうあのハリー・ウォーデンが白旗をあげた。手袋だけ、それもほんの一瞬なら脱いでもいいと言うのだ。
私がますます身を乗り出して見守るなか、分厚い合皮の手袋と作業着の間に隙間が生じていく。するり、と最後は少々あっけなく、ハリーの右手はさらされた。

「わ……」

くすんだ色の肌と、たこのできた太い指と、盛り上がった関節と。どこにでもいそうな普通の男の要素がそこにあった。
そりゃそうだ、ハリーは男なんだから。べつに取り乱すことじゃない。びっくりすることでもない。
そんなの知ってたはずなのに、なんか私おかしいね。
本当は、思いっきり中の人いるじゃん!……なんてツッコミのひとつでも入れて大笑いしてやろうと決めてたのに、いざとなったらキレのいい言葉なんてひとつも出てこなくて、ただ顔が燃えるみたいに熱い。

「ど、どうもありがと」

急に自分が世界一の間抜けになったような気がした私は、そっぽを向いたまま、やたらと苦いにぼしにかじりついた。

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