サイダーポップ

あの嵐の夜から、早5日が経った。
ヌブラル島をかすめた人騒がせな大型ハリケーンはすでに太平洋のはるか彼方に逃げ去ったあとだが、なんとも迷惑なことに、ここジュラシック・ワールドに『後片付け』という嬉しくない土産を残していってくれていた。
現在、臨時休業を余儀なくされたパークでは、従業員やら工事業者やら、はたまたボランティアやらが総出で復旧作業にあたっている。
島の東のはずれにひっそりと居を構えるヴェロキラプトルの飼育施設も例外ではなく、特に著しい被害をこうむったアリーナ外壁の修復と補強作業が超特急で進められているところだった。

ひときわ耳障りな音がして、バリーは顔を上げた。風で剥がれたトタン波板を、作業員が三人がかりで打ち直している。
その作業音の合間を縫うようにしてラプトルの咆哮が聞こえてきて、朝からずっと続いているこの騒音に、あの子たちはさぞ腹を立てているだろうと思った。
彼はきれいに剃った頭を撫であげながら、半分は隣を歩くニーナに向けて、もう半分は誰にともなく言った。

「この熱気、息が詰まるな」
「雨乞いの儀式でもやる?」
「勘弁してくれよ。もう雨はしばらく見たくない」
「それはそう」

まだ正午にもならない時間だというのに、空気はむっとしていて暑い。
風が吹くだけ幾分マシとは言え、首筋を伝う汗をせき止める役には立たなかった。
ふたりは島の端にあるスタッフルームにむかって歩き続けながら、工事が行われている一帯のそばを通りかかった。
トラッククレーンがバックする音や、リフト車の上下で合図を出し合う作業員の声や、小型のフォークリフトが行き来する音がやかましすぎて、バリーは普段よりも声を張り上げなければならなかった。

「で、どうする?」

すると、彼より30センチ以上も背が低いニーナが手元の書類から目を上げて、同じように声を張る。

「今日はエコーが——」
「悪い、聞こえなかった。もう一度」
「エコーの機嫌が悪そうだから、やっぱりオーウェンの言う通り、余計なとこは全部省いて最初のプログラムでいこう」
「わかった」

ニーナがふたたび顔を伏せ、陽に焼けた喉元をしきりに撫でつつ、今日の訓練の流れと内容がびっしり書き込まれたスケジュール表を睨みつける。歩調はひどくゆっくりとしていた。
バリーも眉根を寄せながら、いまから1時間後のことに思いを巡らせた。
今日はこれから視察の予定が入っている。
何もこんなときにと思うが、向こうにしてみれば、休業中の今だからこそ都合がいいのだろう。まったく、上層部の人間はいつもこちらの都合などお構いなしだ。
披露するのは犬の訓練で言う『来い』と『待て』の練習だが、何ヶ月も連続して失敗続きなせいで上はいい顔をしておらず、今日こそ前回よりもいい結果が出せなければ、このラプトル研究プロジェクトに暗雲が立ち込める結果になるのは想像に難くない。主任のバリーの顔つきも自ずと険しくなろうというものだ。

ニーナも、珍しく曇った顔をしている。
調教アドバイザーとして雇われているニーナの立場は複雑かつ不条理だ。いくら成果を出しても彼女の手柄にはならない一方、上が望む結果が出なければ、責任はたちまちその両肩にのしかかるのだから。
そのことを理解している者特有の、覚悟と自信と緊張がない混ぜになった面差しをしたニーナがアリーナの壁を見つめている。まるでその向こうで走り回る愛しいラプトルたちの姿を透かし見ようとするかのように。

安全ハーネスをつけた作業員たちが、彼らの頭上で何らかの指示を飛ばしあう。
ボールラチェットドライバーや面取ペンチ、ケーブルの皮剥き用の電工ナイフ、ハンマー、検電器などを片手に持ち、あるいは腰のツールバッグにぶら下げながら、彼らは狭い足場を行き来している。
そこへ急に強い風が吹きつけて、すぐそばで甲高い音がとどろいた。
その音を聞いたバリーの背筋をたちまち恐怖が駆け抜けた。身体中の毛穴がぶわっと開く。
フル回転する脳は咄嗟にこう推測した——頭上の作業員が何かとてつもなく危険な凶器を取り落としたに違いないと。
そして彼は、かつて従軍していた頃に培った優れた反射神経を発揮してニーナの身体に素早く腕を回すと、ほとんど力任せに自分の方へと引っ張った。
だがバリーを驚かせた銃声のような音の正体は、強風でひるがえったブルーシートだったらしい。
それを知った長身の調教師主任は安堵のため息をついたが、そのあとすぐにぎくりとした。
ニーナと自分の身体とがぴったり密着する感触で現実に引き戻されたのと、先日受けたばかりのセクハラ防止講習のことを思い出したせいだった。
とっさのことで力加減ができなかったせいで、それにニーナの脚の踏ん張りがきかなかったせいもあって、意図したよりも親密な距離になってしまっていた。
黒檀のような肌の上を汗が流れる。バリーは追い詰められて投降する犯人よろしくぱっと両手を上げると、ニーナの身体を解放した。

「おっと、いや、その、悪かった」

バツの悪い笑み。いったい何が起きたのかと背後や頭上を見回してキョロキョロしていたニーナの視線が彼の方に据えられると、後ろめたさがさざなみを起こした。
バリーが自分の間抜けな勘違いを説明しても、ニーナは「ああ」と言ってうなずいただけだった。納得したのかそれとも不愉快さを押し殺しているのか、いまいち判然としない。

「そうね、肩を抱く前にまずデートに誘ってくれるところからじゃないと。順番的には」

いつもの明るい笑顔を向けてくれることもなく、相変わらず手元の資料を見つめるばかりのニーナの姿に、参ったなと胸中で呟く。
ごついワークブーツには釣り合わない小さな足がほんの少しだけ歩調を早める。先ほどまでより距離を置かれている気がするのは思い過ごしだろうか?

「あの子らの餌にされるな」
「や、そうじゃなくて……私めちゃくちゃ汗臭い……からさぁ……」

おっと。どうやら顔が赤いのは暑さのせいだけではないらしい。思いがけない反応に、バリーの胸裏に一瞬、少年のような無邪気ないたずら心が忍び込んだ。
汗みずくのアドバイザーは書類の束をうちわ代わりにして、二度ほど自分の顔を冷ました——あるいはさりげなく顔を覆い隠した。
急にブーツの足が速度をゆるめ、くるりとこちらを振り仰ぐ。目を細めているのは怒りの証ではなく、単に日差しが強すぎるからだろう。

「人にはね、見えすいた慰めが必要な場合もあるの」

なるほど。バリーはシャツの襟をちょっと引っぱって服の中に風を入れ、同時に自分の中の少年を追い出すと、すぐにまじめくさった顔を作って言った。

「俺は全然気づかなかったし、まずビビりすぎて息も止まってたからな」
「ん、よろしい」
「ニーナ、そこ段差あるぞ」

無意識に手を差し伸ばしかけたところで、はっと我に返る。
——おいおいおい、落ち着けよ。また彼女に触ろうとしてるぞ。
彼は自分自身につくづくあきれ返って、苦笑することしかできない。

「わざとやってると思うだろ?」
「バリーって車道側を歩くタイプ? フランス紳士の血は抗えないんじゃない、きっと」
「いつか訴えられるな」
「むしろ保護してもらわなきゃ。絶滅危惧種だからね、紳士なんてのは」
「いや、でもさっきのは不適切だった」
「私はそんなふうに思ってないってば。じゃあほら、エスコートさせてあげてもよろしくてよ」

ニーナが右腕を前に差し出して、気取った笑みと共に顎を上げる。バリーは白い歯を見せて笑った。

「Avec plaisir, reine.」

自分より二回り近くも大きい手を頼りながら、小柄なアドバイザーが優雅な足取りで低い段差を降りる。

「ところで今のはどういう意味?」
「アヴェックプレズィーフ、レーヌ。『喜んで、女王陛下』」
「なるほど。それはすごく気に入った」


視察は成功を収めたように思えた。
オーウェンは群れのアルファとして焦りを表に出さず堂々と立ち振る舞えていたし、ニーナが彼に進言した『動くものに対する反応が顕著なエコーの気を引くために身振りを大きくすること、デルタには音でアプローチをかけること』という内容も効果を発揮した。
最終的にラプトルたちは勝手に散開してしまい、哀れな豚を一頭犠牲にしたが、それでも今日の結果にはバリーやオーウェンだけでなく、スタッフ全員が手応えを感じていた。

クーラーの効いたスタッフルームで、緊張から解き放たれたバリーは心地よい達成感に包まれて、深々と息を吐いた。
完璧ではなかったかもしれない。だがもともと完璧など誰も期待していなかったし、今日踏み出した一歩は予想以上に大きなものとなった。
頑張ってくれた四姉妹、そして調教師やスタッフたちへの労いを込めて、このあとの予定はフリーにしてある。
責任者のオーウェンや自分には明日の準備や報告書の作成などの細々した雑務が残っているものの、ほとんどのスタッフはすでに帰ったか、喜んで遊びに出かけたかしていた。
ここにとどまって別の部屋で冷えたビールを友に、ちょっとした打ち上げに興じている者たちもいる。バリーは参加自体は遠慮したが、かすかに伝わってくるうわついたその気配自体は好きだった。
ラプトルを使って良からぬ未来予測を企てて成果を急いでいる上の人間たちがなんと言うかなど、知ったことではない。これくらいの楽しみがないと皆まともにやっていけないのだ。

気が抜けたせいなのか、それとも連日の睡眠不足がたたったか、睡魔に抗えなくなったバリーは古びた長椅子に深く座って、腕を組んだままうつらうつらしはじめた。
椅子はパリの地下鉄の座席より座り心地が悪かったが、従軍時代にはこれより悪い環境で夜を明かしたことだってある。

「バリー?」

ふいに名前を呼ばれた……ような気がした。
だが単に夢の狭間で反芻する記憶が引き起こした幻聴かもしれないし、向こうの部屋から漏れ聞こえる声を聞き違えただけかもしれない。

「バリーってば。寝るならちゃんと横になったほうが……」

二度目に呼ばれて、ニーナの声だと気がついた。
ふっと脳が目覚める感覚がしたが、すでに睡魔に屈していた身体の方は反応がワンテンポ遅れた。
まぶたを開けるより先にかくりとバランスを崩す。次いで胸に軽い衝撃があった。ワークシャツを通して伝わってくる感触は小さく、そして柔らかい。
どうやら長椅子から落ちたわけではないということ、それはニーナが咄嗟に体を支えてくれたおかげだということに、同時に気づいた。

「悪い、一瞬眠ってた」
「どういたしまして。でも……」

バリーの胸に手のひらを添えたままのニーナがいたずらっぽく、そしてどこか勝ち誇ったように顔を覗き込んでくる。

「訴えられないといいんだけど」
「まさか」

バリーはにやりと笑って応じた。
だって貴重な紳士は保護しないとな、と付け足すことも、もちろん忘れはしなかった。

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