はじめての夏休み

何にも遮られることのない陽射しが、ベージュ色の帽子を突き抜けて灼けつくような熱攻撃をしかけてくる。私は帽子のツバをすこし持ち上げると、雲ひとつない晴天を仰いだ。
いつにも増して大きく輝く太陽が憎らしい。
パーク支給の制服はヌブラ島の気候を考慮して設計されてるらしいけど、さすがに今日みたいな気温の日には、最新の涼感化学繊維も形無しだった。
汗を吸って重たくなったジャケットから腕を抜く。
すると今度は素肌がジリジリ痛んで、げんなりした気持ちが唸りともため息ともつかない雑音となって唇からこぼれ落ちた。

「おっと悪い悪い。えらく忙しそうだな」

後ろから声をかけてきたバリーを振り返ったとき、私はまるでゾンビのようにだらりと両腕を下げていた。それがよほどおかしいのか、黒人の調教主任は人懐こい笑みを満開にした。

「そんなとこに突っ立ってたら倒れちまうぞ」
「ソーラー充電チャレンジです」
「で、成果は……あるようには見えないよな。まぁ気を落とすなよ。そのうち人間も進化するだろ」
「私が生きてるあいだにアップグレードしてほしい……」
「じゃ、今日は諦めて中に入るか? ほら飲み物買ってきてやったから」

スタッフ詰所に戻り、奥のシャワールームで着替えを終えて戻ってきても、あまりさっぱりした気分にはなれなかった。
なぜなら壁のエアコンがまったく仕事を果たしていないから!
このヴェロキラプトル飼育施設はパーク本体から切り離されていることもあり、予算の面でティラノサウルスやモササウルスの施設に大きく劣る。
従って命綱のエアコンも必要最低限の役目しか満たさない古い型のものしかあてがわれず、しかも悪いことに昨日の夜故障したきり修理がいまだに来ないのだ。
なんとかかき集めた扇風機や冷風扇をフル回転させても、室内温度は外とほとんど変わりない。

「二人とも聞いたか? 今日は屋内アトラクションが大盛況の話」

首にタオルを巻いたバリーがスポーツドリンク入りのペットボトルを二本、こちらに投げてよこしながら言う。
私はそのうちの一本をそばのオーウェンに手渡して、代わりに彼が飲んでいたコーラの瓶を取り上げた。

「オーウェン、何回も言ってるけどこんなのばかり飲んでたらダメなんだって」

午前中ずっと重たい荷物の運搬をしていたせいで手に力が入らず、ペットボトルのキャップをひねるのにも一苦労だ。
見かねたバリーが代わりにキャップを開けてくれながら言葉を続ける。

「無理ないよな。この暑さじゃ」
「多分、1番の大盛況は医療センターじゃない? 今日はどこの担当者も大変だと思う」

そう言いながらついつい目線をやったのは、腹を下にして床にへばりつくチャーリーの姿。
末っ子だけではない。エコーはいつにも増してイライラしてるしデルタは逆に大人しすぎ、ブルーは妹たちからもオーウェンからも離れた場所で一人じっと耐え忍んでいるといった有様で、今日の異常気象が彼女たちに悪影響を与えているのは明らかだった。

「チャーリーちゃん」

小型犬ほどの大きさしかない身体に冷えたペットボトルを当ててやると、ぐったり閉じられていた瞼がわずかに持ち上がって私の姿を映す。いたいけな視線が、この暑さをなんとかしてと訴えている気がした。

「大丈夫? お水とか——」
「あっ! おい!」

突然の怒声が、私の言葉をさえぎった。
部屋中に響き渡るようなその大音声にも、オーウェンが立ち上がった拍子に倒れた椅子の音にもひどく驚かされたが、すぐにそんなのは序の口だと思い知った。
なぜなら今の今まで一人でおもちゃをかじって遊んでいたはずのエコーがこちらに向かって猛スピードで突進してくる姿が視界に入ったからだ。
あっ、これ下手したら死ぬやつだ。
私はほとんど反射的に、その生きた弾丸をキャッチした。オーウェンもバリーも目を丸くして息を詰めているが、私の背中にも暑さのせいとは違う汗が噴き出していた。
言葉も出せないまま、無言でエコーを見つめるしかできない。
瞳孔を大きく開かせたエコーもこちらを見つめ返し、しかし次の瞬間には顔面めがけたキックを繰り出してきた。かなりお怒りの様子だ。

「チャーリーがいじめられてると思ったの? いじめてないし暑いのも私のせいじゃないから!」

もともと攻撃性の強い子ではあるが、今日は輪をかけてひどい。
私の手のなかでバタバタ暴れるエコーをバリーが引き受けてくれて、その背中を赤ん坊でもあやすようにぽんぽんと叩いて落ち着かせようとする。

「よしよし……そんなにイライラするなよ。な、エコー?」

昼からの屋外トレーニングを中止したのは正解だったなとオーウェンが誰にともなくつぶやいて、判断を下した当人の私も改めてそう感じた。
それは酷暑の中で調教を行う自分とオーウェン、それに補佐のスタッフの体調を案じたからでもあるし、他ならぬラプトルたちのことを考えた結果でもあった。
環境や周囲の状況にかかわりなく指示に従わせるのはこのプロジェクトの最終目標ではあるが、それは一つずつ段階を踏んで到達すべきステージであり、四姉妹の調教はまだその域まで達していない。

突然オーウェンが指を鳴らしたので、私とバリーとエコー、それにたまたま近くを通りかかった他のスタッフたちまでもが揃って注意を向けた。
大柄な元海軍兵は私がチャーリーの背中に濡れタオルをかけてやるのを見て、何か思いついたらしい。


長方形のプラスチックコンテナに冷水が流し込まれていく。
6500万年前の森林を真似て造られたアリーナには不似合いすぎる無骨な箱は、さっきオーウェンが裏の工事現場から拝借してきたものだ。
大型資材の保管用なだけあって、容量200L近くはあるだろうか。まるで古代のものものしい浴槽のようで、妙な迫力をかもし出している。
ラプトルたちはブルーを中心とした警戒態勢の陣形を取り、灰色のホースから放出される冷水を注意深く見守っていた。

「このくらいでいいな」

オーウェンが手で合図を送ると、水道のそばで待機していた年若いスタッフが水を止めた。
完成した即席プールの意図を真っ先に理解したのはデルタだった。彼女がクルルックルルッと他の姉妹に喋りかけるのを合図に、四頭がじりじりとコンテナに近寄っていく。
まず長女のブルーが中を覗き込む。それを後押しするように、オーウェンが優しい声で彼女を励ました。

「ほらブルー。ただの水だ、怖くないだろ?」

四姉妹の長女はオーウェンの右腕が水面をかき混ぜる様子をこわごわ観察している。
まだまだ心身ともに幼い彼女たちが得体の知れない巨大な箱と、なみなみ注がれた水を前に尻込みするのも無理はない。
ブルーは視線を上げてオーウェンを見つめ、水面を見つめ、それからまた戸惑いがちに〝ママ〟の顔を覗き込んだ。
オーウェンが素晴らしいのは、いつも決して結果を焦らないところだ。今も彼はブルーが自ら気持ちに折り合いをつけるのを忍耐強く待っている。
この暑さの中じゃじっとしてるのも相当つらいだろうに、その眼差しには母性愛すら滲んでいて、私とバリーは目配せを交わしてこっそり笑い合った。

「いけそうか? よし。じゃあいいな、ブルー?」

たくましい両腕が青灰色の体を宙に浮かせる。
ブルーは空中で所在をなくした両足を不安そうにばたつかせていたが、やがて爪先からゆっくりと水中に浸かっていくと、その冷たさに驚いたのか、それとも気持ちがいいのか、ギュルギュルと喉を鳴らした。
続いて意気揚々のエコーがジャンプで中に飛び込んで、デルタはバリーの助けを借りて中に入った。
ひとりだけ遅れをとったチャーリーが慌ててぴょんぴょん跳ねまわりながら、一番近くにいた私の胸に飛び込んでくる。
なんて言うと微笑ましいが、釣られた魚みたいに暴れる恐竜を抱き支えるのは並大抵のことではなかった。

「はいはいはい、わかったわかった。はい、どうぞ。降りていいよ」

ところがいざプールに入れてやろうとしても、末っ子は私の胸元にがっちりしがみついたまま離れようとしない。急に怖気付いたのだろうか。
爪がぎゅっと食い込んで、シャツ越しにわずかな痛みが走る。

「あっ、だめだめ。服に穴空くから! だめだって! ごめんオーウェンこの子はがして……」
「まぁそれも勉強の一環だと思って頑張れよ」
「いや、なんでそこで見捨てるの?」

いつまでもまごついているチャーリーを、エコーがしっぽを振りながら見上げている。

「こらエコー、お行儀よくだからな」

すかさず厳しい口調で釘をさすバリーの脳裏には、エコーがチャーリーの足に噛みつく映像でも浮かんだに違いない。気持ちはわかる、だって私もそれと全く同じ想像をしていたところだから。
だけど幸いにも、波乱の予感は取り払われた。いきなり激しい水浴びをはじめたデルタのおかげで、エコーの意識がそちらにそれたのだ。
デルタが身震いすると、コンテナの外まで水が飛び散った。オーウェンとバリーはすんでのところで後ずさって逃げたのに、チャーリーをかかえているせいで遅れをとった私だけがびしょ濡れになってしまった。

「もうー、デルタぁ」
「自分を鳥とでも思ってんのか?」

身体と頭をバタバタ震わせる様子をバリーはそう言ってからかったが、たしかにこの動きは鳥そっくりだ。
顔面にまともに水しぶきを浴びたエコーが怒ってデルタの横っ面に頭突きした。
今にも取っ組み合いをはじめそうな2匹をオーウェンとブルーが必死になだめる光景を横目に、バリーが「ニーナ、ほら」とこちらに両手を伸ばしてくる。
チャーリーを引き受けてくれるつもりらしいが、食い込んだ爪は一向に剥がれる気配がなく、服の方が白旗をあげそうになったのであきらめざるを得なかった。

「ねぇチャーリー、そんなことしてたらずっと遊べないよ? ブルーもおいでってしてくれてるのに」
「チャーリー、ニーナが一緒に入ってくれるらしいぞ。よかったな」
「オーウェンもひどいけどバリーもそこそこやばいこと言いだすの、何?」
「でもな、代わってやりたくても俺には狭すぎて無理だろ。それにどのみちあとで着替えるよな?」
「そういう問題かなあ」

しかも悲しいよね、周りで見てる同僚が誰も助けてくれないなんて……この職場、ツッコミ役が少なすぎると思うんだけど。

「ほら」

再びバリーが手を差し出してくる。
でも私にはすぐわかった。今度の「ほら」がさっきの「ほら」とは違う意味だってこと。
オーウェンに視線で助けを求めたけど、ブルーと二人だけの世界に入っていてまったく役に立たない。ひどい。ブルーが楽しそうだから許すけど。
結局は、今にも焦げ付きそうになっている肌の火照りと、あきらかに面白がっている周りの視線に耐えきれず、しぶしぶバリーの手を借りてコンテナのふちをまたいだ。

「あー冷たい……」

水はまだまだひんやりしていて、つま先から生き返っていく気分だった。デルタが怒って体当たりしてくるのも気にならないくらい気持ちいい。
湯船に浸かるように腰を下ろすと、私の腕に抱かれたままのチャーリーのお尻が水中に半分ほど沈んで、そしたら彼女はやっとここが『怖くない』と理解したようだった。
うれしそうに喉を震わせるチャーリーの頭をバリーがやさしく撫でた。よかったな、なんて笑顔で喋りかける彼の額にはいく筋もの汗が流れている。

「バリーも入れたらいいのにね」
「水が全部あふれてもいいなら入るぞ」
「もうちょっと広かったらねえ……これより大きいコンテナってないのかな?」
「それ普通にプール設置する方が早いんじゃないか? ほらあるだろ、フレーム式のでっかいやつが」
「あードラマとか映画でよくあるよね、庭に置くやつ。頑張ったら経費で落ちそうだしいいかも」
「あれなら設置も——」

そこでバリーは突然なにかに思い当たったらしく口をつぐんだ。ややあってオーウェンの方に向き直った彼が投げかけたのは、実にシンプルな疑問だった。

「そういやコレ、片付けるときどうすんだ?」

保管用コンテナに、もちろん排水口なんてものはついていない。しかもプラスチック製とはいえサイズがサイズなだけにそこそこの重さがある。
空っぽの状態でも台車を使わなきゃ運べなかったのに、水を入れたまま動かそうと思ったら……クレーン車にお越しいただかないと無理かもしれない。

「そうだな」

言葉少なに応じるオーウェンがもっともらしいしかめっ面をつくりながら、シャツで顔の汗をぬぐう。この声はたぶん、なにも考えてなかった声だ。
不自然な沈黙にものすごく嫌な予感を覚えたけど、オーウェンは私の悲観的な想像を軽々と飛び越えていく提案を口にした。

「なあ、バケツリレーって知ってるよな」
「えっ……この暑い中でそんな重労働を……?」

急にめまいがしたのはきっと太陽のせいなんかじゃない。
チャーリーの背中に顔をうずめる私の願いはただひとつ、このまま一生プールから出たくないってことだけだった。

タイトルとURLをコピーしました