かつてのわたしをおびやかす

人生において絶対に信用してはいけないものは無数にある。誰かの言葉、笑み、視線、慰め、約束、謝罪に涙。
枚挙にいとまがないが、筆頭選手は天気予報だろう。イスラエルでもアメリカでも、それはまるで変わらないらしい。

「なーにが降水確率30パーセントよ」

いまにも雷鳴がとどろきそうな鉛色の空の下、つい先日隅々まで磨き上げたばかりの愛車に雨粒が叩きつける。
チリや埃や排気ガスをたっぷり含んだ雨に半日分の労力と時間を無駄にされているいらだちをハンドルを叩く指先のリズムと毒舌に込めながら、ジヴァはノロノロ運転のアメリカ市民が無数に行き交う大通りから脇道へとタイヤを侵入させた。
この道は狭いし路面も悪いが7分は早く家に着く。力一杯アクセルを踏み込めば、もっと短縮できるかもしれない。
だが彼女はそうしなかった。突如として法定速度厳守の精神に目覚めたからでも、雲間の閃光に気を取られたからでもなく、目の前の歩道を行く後ろ姿がよくよく見知った相手だと気づいたからだった。

「アビー!」

驚かさないようにクラクションの代わりに窓を開けて声を張り上げれば、アビー・シュートはすぐさまこちらを振り返った。
ヘッドライトに照らされた笑顔も、大きく手を振り返してくるしぐさも普段となんら変わりなかったが、ツインテールの黒髪から厚底ブーツにいたるまで全身ずぶ濡れの悲劇に見舞われていることを思えば、その余裕はかえって不適当に映った。

「やっほージヴァ。いま帰るとこ?」
「そうだけどそっちは何してんの!? 傘も差さないで!」
「んー、別に何ってわけでもないんだー。なんかさーいきなりバーッて降ってきたの見てたら思ったんだよね、逆に濡れてみたら楽しいかもーって」
「……で、いま楽しい?」
「ううん全然。正直期待したほどじゃーなかった」

こんな場面で用いるべき英語をジヴァは知らなかった。
いや、ヘブライ語でもフランス語でも他のどんな言語でだって、今の内心を表現する言葉はどこにも見付かりっこないだろう。

「それじゃもう気が済んだ? 送ってくからとりあえず乗って。風邪ひくよ」
「でもあたしの家、別方向だよ」
「しょうがないよ、ほっとけるわけないし。ほら早く! 車を水没させる気?」

アビーがその長い脚を助手席に収めてシートベルトに苦戦している間、ジヴァは後部座席を振り返ってタオルか何か見つからないかと探してみたが、残念ながら期待はずれの結果に終わった。
しかたなくバッグからハンカチを引っ張り出して、ついでに今朝着ていた薄手の綿ジャケットと一緒にアビーの膝に置いてやると、黒い口紅とアイシャドウで彩られた顔が輝いた。

「ジヴァってさーほんと優しいよね! あたしジヴァのそゆとこ大好き」
「知ってる」

褒められたくすぐったさをごまかすために冗談めかして笑おうとしたが、できなかった。雨に濡れた両腕にいきなり抱きしめられたからだ。
まっすぐな愛情に触れるといつもそうなるように、ジヴァの思考は一瞬動きを止めた。
呼吸さえも止まりそうになる。まるでぎこちない戸惑いが全身を錆びつかせてしまったかのように。
自分も相手の身体に手を回して、座席ばかりでなく衣服まで濡らしてくれたことをからかうのが正しい『アメリカ式』かとも考えたが、満足したアビーが離れる方が少しだけ早かった。
もしも抱きしめ返していたら、その背中がどれほど凍えているかを知れただろうか。

再び回転を始めたタイヤが泥水を跳ね上げる。
ボンネットを叩く雨音はいよいよ激しく、デスメタルもかくやのリズムを奏でているが、普段なら耳障りで仕方がないであろうその音も、いまは助手席の賑やかさのおかげでほとんど気にならなかった。
アビーは先日、修道女たちと参加したというボウリング大会での出来事をひっきりなしに喋りつづけながら、ハンカチで自分の胸元をぬぐっている。
貸してやったジャケットは袖丈が少し足りないようで、動くたびに華奢な手首に巻きついた鈍器じみたブレスレットが見え隠れした。
ドクロマークがプリントされたTシャツとグレーのカジュアルジャケットの組み合わせはいかにもアンバランスで不恰好だったが、ジヴァはアビーがそれを着ているのを見るだけで、なぜか満ち足りた気持ちになれた。

「ねねね。あたしね、すっごい大発見したんだけど」

アビーが急に話しかけてきたので、ジヴァも赤信号を睨みつけるのをやめて視線を合わせた。
こちらに身を乗り出すアビーの瞳は子犬に似ている。そこには何の疑念もなく、不安もなく。ついでに疲労も感じさせないことにジヴァは驚いた。ここ数日は連続殺人事件の捜査で朝から晩まで休む間もなく働きづめのはずなのに、こんなにけろっとした顔をしているなんて。
理由はこの子の正体が吸血鬼だからなのか、それともあの頭が痛くなりそうなくらい甘ったるいカフパウの効果なのだろうか。

「発見って?」

ジヴァが訊ねると、アビーの笑顔はますます明るく輝いた。
何がそんなに楽しいのか、遊園地ではしゃぐ子供のような彼女は、ツインテールからぽたぽた滴る水が自分の肩を濡らしていたって少しも気にならないらしい。

「もしかして一緒に帰んの初めてじゃない?」
「方向が違うし帰る時間も合わないことが多いからね」
「だよねー。もう一年半も一緒に仕事してんのに」
「ほんと“すっごい大発見”でびっくりした」

また信号で停車した隙をねらって、アビーのツインテールの毛先をすこしだけ引っぱった。垂れてきた雨水がジヴァの指から手首をつたい落ちていく。
アビーは不思議そうにこちらを見ているが、少なくともこの笑みは拒絶ではないだろう。
さりげなく暖房の出力を上げながら、ジヴァが考えていたのは、ここからアビーの家に着くまで何分くらいだろうか、ということ。
雨はまだまだ降り続いている。ハンドルをゆるく握り直したジヴァは車内の時計を見て、そしてアビーの横顔を盗み見ると、愛車の速度を少しだけ落とした。

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    ジヴァ×アビーNCIS
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