フライング・プレゼント

ニューヨークのセントラルパーク・ウェストは、クリスマスと年末を間近に控えたもっとも忙しい時期を迎えていた。
日頃からまどろみなどとは無縁のニューヨーカーの歩みはいつにもまして速く、大通りを行き交う車や自転車や人の波は途切れることがない。
そんな彼らに背を向けて、ロザリーは一軒のタウンハウスの呼び鈴を鳴らした。身を切るような寒さに、しきりに両足を踏んでいる。
スエードの手袋を外して前髪をさっと整えたところで目の前のドアが開いた。

「やあ、驚いたな。ロザリーじゃないですか。急にどうしたんです?」

中から出てきた端正な顔つきの青年はそう言って更に大きくドアを開く。玄関に招き入れられたロザリーは鼻先を覆っていたマフラーを指で押し下げると、ぎこちなく微笑んだ。あまりの寒さに表情筋が凍てついていた。

「や。近くまで寄ったから……捜査中とかじゃなきゃいいんだけど」

家主のリンカーン・ライムはニューヨーク市警の科学捜査コンサルタントをつとめている。彼が率いる特別捜査チームは、つい先月もマジシャンがらみの殺人事件を解決したばかりだ。
ライムの介護士は含みのある声で答えた。

「大丈夫ですよ。今のところ、僕らにできることはありませんし」
「今のところって?」
「実は今朝、ちょっと変わった話が持ち込まれまして」

シカゴで不可解な強盗事件が起きたこと。犯人の足取りが全くつかめずシカゴ警察がとうとう音を上げたこと。
そしてライムの力添えを求めるべく、現場から採取された謎のプラスチック片と化粧品らしき成分がここに運ばれてくる手はずになっていることを、トムは黄色いゴム手袋を脱ぎながら教えてくれた。

「おかげで今日はまだ一度しか怒鳴られてません。あの人の口に突っ込んでおけるおしゃぶりが見つかって、僕としてはありがたいですよ。ところでコーヒーをどうです?」
「おかまいなく」
「じゃあココアにしましょう。暖まりますよ」

トムがキッチンに消えたあと、ロザリーはテーブルの上にストローが刺さったままのタンブラーが置き去りにされているのに気がついた。
底に琥珀色の液体が残っている。独特の煙のような匂いから、それがライム愛飲のスコッチだと察しがついた。
トムが主人の要望にしたがって中身を満たしてやるためにここに準備したとは考えられない。なにせまだ夜には早いから。となれば、ライムから取り上げたのだろうとロザリーは思った。
ライムはウイスキーの愛飲者だ(ただし年代物に限る)。それは彼がコンサルタントになる以前、市警の科学捜査本部長をつとめていた頃から変わらない。

まもなくエプロン姿の介護士がトレイを持って戻ってきて、ロザリーは湯気のたつマグカップを受け取った。
だがアイシングのかかったデニッシュは断っておいた。これから一緒に食事を予定している恋人に知られたら、なんと言われるかわからない。

「捜査中じゃないならアメリアはいないよね?」

ライムのパートナー、アメリア・サックス。長身で美しい顔立ちの女警官は、やはり今は別の事件の現場鑑識に駆り出されているらしい。

「この間アメリアにペン借りて。まぁ別にすごく困ってるってこともないだろうけど、せっかく通りかかったから」

カバンからまだ新しいボールペンを取り出してトムに手渡す。
その赤色は本来の持ち主の髪色とよく似ていた。それから、彼女の愛車のカマロにも似ている。

「今晩必ず渡します」
「うん、よろしくね。ところで……我らが陽気な王様は?」

見計らったようなタイミングで二階からエレベーターが下降する音が聞こえ、間もなく低い怒鳴り声も聞こえてきた。

「おいトム、誰か来たのか? ロンじゃないだろうな? ならさっさと——」

エレベーターシャフトの昇降口がある奥の部屋に向かってトムも負けじと声を張り上げた。

「ロザリーが来てくれたんですよ。挨拶くらいしたらどうです、リンカーン?」

ロザリーは隣の部屋を覗き込んだ。
犯罪現場に遺された物的証拠を分析するための器機や器具、コンピューターやケーブルで埋め尽くされている、その部屋。
ここは18世紀に建てられた歴史ある家屋だが、中は外観からは想像もつかないくらい近代的かつ利便性を追求した仕様に改装されていた(邪魔な壁をぶち抜くのにも、ライムは一切躊躇しなかった)。
それこそ建築者が見たら卒倒してしまうかもしれないくらいに。

とりわけこの“捜査本部”は本格的だった。
そこらの分析ラボに負けないくらい、いや、はるかに凌駕する高級品ばかりが並んでいる。
その宝の山の間を縫うようにして電動式の車椅子が滑ってくる。床は全面バリアフリーのはずだが、そこらを縦横無尽に横断するケーブルの束のせいで時おり車椅子のタイヤが浮き上がった。

「こんにちは、リンカーン」

リンカーン・ライムは数年前、地下鉄駅の工事現場を鑑識している最中に大事故に見舞われた。
腐ったオーク材の梁が突然崩壊して、彼の上に崩れ落ちてきたのだ。硬い木材はまるで狙いすましたかのようにライムの第四頸椎をうち据え、彼に四肢麻痺という重い障害を残した。
皮肉なのは、第四より頭部に近い頸椎を破損したならまず間違いなく命はなかったろうし、下の頸椎なら脚は無理でも両腕と両手は無事だったかもしれないことだ。ライムが味わった生き地獄はロザリーには想像もつかない。
だが憐れみは感じていなかった。
むしろ失意のどん底から這い上がり、その明晰な頭脳をいかんなく発揮して難事件を解決に導いてきた彼を心から尊敬している。それに最近ではリハビリにも意欲的に取り組んでいるらしいからなおさらだ。

真っ赤な玉座に腰かけた四十代なかばの男は不機嫌を隠す努力などするつもりもないらしく、眉間に深々と皺を刻んでロザリーを見た。

「ロザリー。調子はどうだ? 私はすこぶる好調だよ、おかげさまでね。くつろいでるか? なんなら夕飯も食べていくといい」

表情と少しも噛み合っていないわざとらしく明るい声音にトムは呆れて雇い主を睨み付けたが、ロザリーはくすくす笑った。
なにせこのリンカーン・ライムという男、誰に対してもこんな調子なのだ。
初対面の人間は大抵たじろぐか嫌気がさすかするが、ロザリーはもう数年来の付き合いだ。別に自分がライムに嫌われてる訳じゃないのも知ってるし、なにより、この男のこんな所こそが好きだった。

「お招きどうも! でも今日はちょっと寄ってみただけなの。また今度ゆっくりテニスでもやりましょ?」

車椅子に屈み込み、ライムの筋張った手の甲に自分の手を重ねる。あの事故以来、自分の意思で動かせるのは首から上と左の薬指だけになったライムとの、ロザリーなりの“握手”だ。
それが終わると、不機嫌の化身はあまりに急速に後ろを向いた。完璧な角度でこちらに背を向けているために、赤い背もたれとヘッドレストしか見えない。
彼が肘掛けに据え付けられたタッチパネルに薬指を滑らせると赤い車椅子はみるみる遠ざかっていき、やがてパソコンや様々な科学機器がひしめく部屋の奥へと消えていった。

「うん、相変わらずでよかった。安心した」
「あの人なら気にしなくてもいいですよ。本当に夕食を一緒にどうです? アメリアも喜ぶでしょうし」
「そうしたいけど……これからデートなの」

それなら仕方ないと、金髪の介護士は柔和にうなずいた。

「ではまた今度。アリスさんによろしくお伝えください」
「うん、伝えておく」

ロザリーもうなずきを返して、それから話題が自らの恋人に飛んだことで切り出しやすくなった質問を口にした。

「忙しそうだけど……彼とはちゃんと会えてる? っていうか、それ以前に休めてるの?」

ライムを知るきっかけともなったトムと出会ったのは、数年前のゲイバーでのこと。
最初は好きなテレビドラマとカクテルの趣味が共通していることから意気投合し、さらにお互いの職業が近い——介護士と保育士——のがわかるとさらに親交を深めるようになった。
トムの第一印象は『真面目な人』だったが、それは今でも変わっていない。
激務にもかかわらず彼の金髪はいつだって清潔で、シャツにもスラックスにもきっちりと折り目がついている。今日だってどこにもくたびれたような様子はなかったが、それがかえってロザリーを心配させた。
トムがブルーのネクタイを右手でいじっている。彼がなにかを迷っているときのしぐさだ。
もしかしたら痛いところを突いてしまったのかもしれない。そう考えてロザリーは少なからず慌てた。この間のWデートではなんともなさそうだったが、喧嘩をしたとか、ことによると破局した可能性もある。
だが、トムは困ったように目を細めてこう言っただけだった。

「すみません。心配されるとは思ってなくて」
「そりゃ……介護士ってだけでも大変なのに普通の人の百倍激務でしょう? 心配もしたくなるよ」

ライムの小言や皮肉を一日中聞かされるだけでも並みの労働に値するのにと付け加えると、トムは肩をすくめた。

「それは否定しません」
「トムは本当に頑張ってるよ。介護士の……っていうか社会人の鑑だと思う」

彼を讃える銅像が建てられてもいいくらいだと思えるほどに。

「その言葉だけでなんとか今日を乗り越えられそうですよ。そうだ、この次はクレフティコをご馳走します。ぜひアリスさんもご一緒に」
「え、本当?」

ギリシャ料理はロザリーの大好物だった。特にトムの手料理は絶品だ。

「ええ、よさそうなレシピを見つけたので、被験体になってくれる相手を探してたところで」
「それはもう喜んで! あ、あれも食べたいな。ナッツの甘いパイ」
「バクラヴァですか。いいですね」

残念ながら、二人のお喋りはそこでおしまいになった。このタウンハウス目指して一台の車が近づいてきたからだ。
窓から外を覗いたトムはライムの元同僚刑事、ロン・セリットーの愛車だと指摘した。

「おっと、リンカーンのおもちゃが到着したかな?」
「そのようですね」

エンジンの音はライムの耳にも入ったらしく、奥の部屋からトムをせっつく声が飛んできた。

「おい、トム! お客さんのようだぞ! トム! そこにいるのか?」
「そんなに大声を出さなくても聞こえてますよ! もう少し丁寧に頼むなら行ってきてあげます」

憎々しげなうなり声が、奥の部屋から聞こえてきた気がした。ちなみにライムの言う“お客”とはセリットーではなく彼が携えてきたはずの証拠物件の方を指す。

「悪いが、私はいま“手が離せなく”てね、ぜひきみに来客の対応を頼みたい」
「わかりました」
「じゃ、私は失礼するね。あったかい部屋は名残惜しいけど……このうえ居残ってたら本格的に叱られそう」
「慌ただしくさせてすみません」

二人は連れだって玄関に向かった。大理石張りの床から冷えが這いのぼってくる。トムがドアを開けてくれると、寒さはいっそう激しく身を切りつけてきた。

「それじゃね、また今度!」

最後にもう一度だけ気安い別れの挨拶を交わして、ロザリーはタウンハウスを辞した。
今まさに車から降りようとしている、相変わらず皺くちゃなスーツのセリットーにも軽く会釈してから、行き急ぐ人々に合流する。
寒い。だけどうきうきして、楽しみな気分だった。恋人に会うのも、美味しい食事をするのも。

そして——握手したときこっそり車椅子のカップホルダーに差し込んできたタンブラーをトムが発見するのはいつになるだろうと考えるのも。
きっとそのときには中身は空っぽになっているはずだ。ライムの勝ち誇った態度とトムの反応を思い描いて、ロザリーはマフラーの中でクスクス笑った。

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