シュガーレス・ハート

転職1日目の手応えは、正直あまりよくなかった。

「おいおい! ストップストップ、ここは部外者立ち入り禁止だって書いてあるだろ?」

だって、おはようございますの前にこんな言葉を聞くなんて思ってもなかったし。
声も体もでっかくて、しかも不機嫌な顔した白人男性がのっしのっし歩いてくる姿はちょっと怖かったし。
そのうえ手のひらをこっちに突き出して静止をうながすしぐさが、まるで犬に“待て”をしてるみたいなのが、なおさら気分のいいものじゃなかった。

「いえ、でも、違うんです。私は——」

彼が事前に聞かされていたオーウェン・グレイディだってことには気づいていた。
彼も私に気づいてくれるものと思っていた。っていうか、そうなるはずだったんだけど。
想定外の展開に慌てるあまり弁明の言葉すら見失った私は施設内から追い出される寸前だった。タイミングよく助け舟が来てくれなければ、本当にそうなっていたかもしれない。

「おい! オーウェン! まてまて、彼女はいいんだ」

私たちはほぼ同時に声の方を振り向いた。汗みずくの黒人男性がこちらに駆け寄ってくる。
助け舟ことバリーは私とグレイディさんを順繰りに見やると、バツの悪そうな表情を作った。

「オーウェンおまえ、せっかくの新入りをいきなり門前払いする奴があるか?」
「は? 新入り?」
「どうもはじめまして。今日からお世話になるアオイ・ウォーカーです、よろしくお願いします」

グレイディさんは面食らうのに忙しくて私の手を取ってくれなかったので、しかたなく、行き場をなくした右手でバリーと握手しておいた。

「バリーさんもおはようございます。てっきりもう話してくださってるかと」
「悪い。つい忘れてた」
「いま新入りとか言ったよな? つまり俺に無断で採用したのか」
「おいおい、よせよ。睨みつけたいなら人事にしてくれ」

バリーは慣れたようにグレイディさんをたしなめてから、こちらに向き直った。
彼もまた規格外の長身の持ち主で見上げると首が痛いほどだったが、親しげな声音のおかげか、それほど威圧感は覚えない。

「それにしても随分早いな」
「もし出直した方がよければ……」
「いや、今のは褒めたつもりだった」
「前の職場が時間にシビアだったもので」

すると、「また獣医交代か?」とグレイディさんが横から口を挟む。
またってどういう意味だろう。ここに配属が決まったとき、ある程度危険が伴う業務だからと事前にしつこいくらい釘を刺されたけど、そういう意味?

「あの医者を追っ払いたい気持ちはわかるがその日は残念ながら今日じゃないな。彼女はアドバイザーだよ」

グレイディさんは目を丸くして私を上から下まで眺めた。この人って自分に正直なんだろうけどちょっと失礼だよね。

「サウスカロライナに馬鹿でっかい動物園あるだろ? おっと、これも褒め言葉だからな。そこで10年働いてたところを引き抜かれてきたのがこのミス・ウォーカー」
「ノースです、ノースカロライナ。サウスのは水族館。あと細かいことですが12年いました」
「そうだよな、ウサギも恐竜も同じようなものだしな」
「ウサギは触ったこともありませんよ、ミスター・グレイディ」

不思議。なんでどの人も決まって私がウサギやモルモットの飼育係だったって思い込むんだろう。女だからって小動物担当とは限らないのに。
バリーから私への目配せは、“だよな”って語りかけていた。“いいからガツンと教えてやれ”って顔にも見える。

「私は猛禽エリアのゼネラルマネージャーでしたから。その前の数年間は大型肉食獣の飼育とトレーニングを。両生類と爬虫類エリアにいたこともあります」
「な? 10代の頃からやってるプロで俺らの大先輩だって、これでわかったろ」

そう言うバリーのにやけ顔に一発お見舞いするふりをしてから、グレイディさんはしぶしぶ認めた。

「なら確かに『ふれあいコーナー』に行かせるには惜しいよな」
「はい、きっとお役に立てるはずです。私はあなたの仕事を奪いに来たんじゃないですからね。仲良くやりましょうね」


「うっ」

そして転職100日目の朝、チャーリーが背中を駆け上がっていった。
私を踏み台に跳躍したチャーリーは体の大きさこそまだ小型犬サイズ程度でしかないが、手足の力や体重はそこらの犬とは比べ物にならない。
思わず漏れた声がそんなに間抜けだったか、オーウェンがニヤニヤ笑っているのが悔しかったので、私はこんなのヒクイドリのキックに比べたらなんでもないと強がった。

「ヒクイドリ? 鳥か?」
「そう、80kgを越すこともある大きな鳥。テレビとかで見たことない?」

オーウェンはその数字に驚きつつも、まだピンとこない顔をしている。

「世界一危険な鳥って呼ばれてるくらいの鳥で、何が怖いって後ろ足がやばくて」

ほぼこれと同じ感じかなと説明しながら私が指し示したのはチャーリーの脚。抜群の瞬発性を生み出す発達した筋肉も、厚い皮膚も、長い鉤爪もヒクイドリとそっくりだ。さすが鳥類の祖先なだけはある。

「ダチョウとはまた違うんだよな?」
「あ、でも近いかも。目つきが悪くて色が派手で攻撃的な小型のダチョウだと思ってくれたら……」
「そんなのがいきなり飛びかかってきたらたまったもんじゃないな」
「そうね。私は10針縫うくらいで済んでかなりラッキーだった方」

最大限に大真面目な顔と声で説明したのが良かったか、オーウェンに顔をしかめさせることに成功して、私は意地悪な満足感を覚えていた。

「なぁ、そこまでされるのはよほど怒らせた場合だけだって言って俺を安心させてくれるんだろ?」
「と、思うよね。でもあの子たちって人間に懐かないから理由なく襲ってくるのよね、これが。ところで歯はどう?」
「ここの尖ったのが原因だな」

さっきからオーウェンはライト付きの口腔内鏡でデルタの口の中を照らしていた。
最近どうもデルタが口をもぐもぐさせてることが多いと思ったら、伸びすぎた歯を気にしての行動だったらしい。
他の姉妹は意識的に硬いものをかじって調整してるのに、この子だけおもちゃ遊びがあまり好きでないせいか、こんな困った結果になってしまった。

「ちゃんと骨を噛まないからだぞ、デルタ」

いやいやをして逃げようとするデルタをしっかりと膝の上に乗せ直しながら、オーウェンはまだぶつぶつ言っている。
おい誤魔化すんじゃない、目をそらすなと厳しくも愛情深い調子で叱る口調は完全に子供に対するそれだ。彼はすっかりラプトルたちの父親気分になっている。

「木の枝でもやってみるか」
「牛の大腿骨にラードを薄く塗り込んだら反応してくれるかも」

そのとき、部屋の反対側で鋭い唸り声と甲高い悲鳴とが同時にとどろいた。
発生源はこのところ衝突の多い長女と三女だった。エコーがブルーにしつこく組み付いたあげく厳しい教育的指導を受けたようだ。
ブルーは仰向けに転がって白い腹を見せているエコーの喉元にかぷりと噛み付いて、これ以上攻撃してくるんじゃないぞと警告を加えたが、その視線はなぜかこちらに向いていた。
尖った前歯をむき出し鼻腔を広げる顔つきに明らかな敵意を感じるのは私だけだろうか。警告の本当の矛先がエコー以外に向けられてるように思うのは。

「ねえ、ブルーの……」

様子がおかしいみたいよ、と忠告したかったけど無駄だった。
私がオーウェンの腕に触れようとした瞬間、ロケットみたいな速度でブルーが突っ込んできたからだ。
反射的に床から立ち上がった私の脛に渾身の頭突きが炸裂する。バランスを崩してよろけたところへもう一発、今度は反対の脚に一撃を喰らった。

「痛い痛い痛い痛い!」
「ブルーやめろ! 落ち着け!」

オーウェンが必死になだめようとするけど効果はゼロで、背後にかくまってくれようとする気遣いさえもブルーを余計に怒らせる結果にしかならなかった。
ここまできたら怒りの要因なんて明らかなのに、彼は悪手ばかり選びたがる。
余計なことをすればするほど状況が悪くなるんだってば。なおも私をかばおうとする彼にそう言いたかったけど、今話しかけたりなんかしたらそれこそ終わりな気がしたのでやめた。

動物園ではコヨーテやボブキャットの群れとよく遊んだ。知能の高い猛禽たちと一番うまく付き合ってたのは自分だと自負しているし、その他の動物たちの習性も一通り学んできた。
縄張りを侵されたと思っている動物は、お腹をすかせている動物よりもある意味では危険なのだ。
こんなときは怒鳴ったりして刺激するのもいけないけど、あまり弱いところを見せても獲物と認識されて襲われる。

唸りながら睨みつけてくるブルーの領域から静かに離れることを選んだ私の判断は功を奏し、ブルーはやっと尻尾を下げた。
この騒ぎに便乗して暴れようと企んでたらしい他の三人は少し残念そうだったけど。

「わかったわかった、言いたいことはよくわかったから……」
「一体なんだったんだ、ブルー? デルタばっかりかまってもらってるからって拗ねたのか?」
「なんで当の本人がわかってないのよ」
「俺がなにをわかってないって?」
「もー、喋ってるとまたブルーが怒るから。ほらまた唸りだした」

この100日で気付かされたのは、私にはまだまだ学習の余地があるってこと。
それと101目からを無事やり過ごすために一番大切なのは、この嫉妬深いお嬢さんとどう付き合っていくかにかかってるってことだった。

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