悪夢のない世界でおやすみなさい

寝付きが悪くてよかったと思う唯一にして最大のひとときは、好きな人の寝顔を眺めている時間だ。
時おり震える黒いまつげを見ていると、つい一時間前にこのまぶたに口づけたのを思い出す。キスしたときに私の頬をかすめた高い鼻は多分もう冷たくなっている。
薄く開いた唇から聞こえる息遣いのリズムに耳を澄ませるのも好き。起こさないように気をつけながら、柔らかい髪を指に巻き付けるのも。
シーツに横たわるナンシーの指が一度だけ痙攣した。悪い夢を見ているのか、閉じたまぶたの奥で眼球がせわしなく動いている。
私だけが知ることを許された、怖がりな幼い少女の面影がそこに横たわっていた。
すると、急にいろんなことを思い出して——ナンシーとはじめて目が合ったあの日から今日の夜までに交わした会話や、質問や、軽口や、笑いや、傷心や、たまのすれ違いの記憶が一気によみがえって、私の胸はたちまち焼けついた。
大丈夫だよってそっとキスしてあげたかった。肩を撫でてあげるつもりだった。
だけど気がつくと私はナンシーを抱きしめていて、シーツの上で痩せた体がみじろいだ。

「ん、なに……」
「あ……ごめん、我慢できなくて」

まだぼんやりしているその頬にかすめるだけのキスを落としたら、ナンシーはくすぐったそうに首をすくめた。
「何を」と聞き返す声には睡魔に混じって紛れもない警戒心が滲んでいる。自業自得とはいえ信用されてないなあってちょっと悲しい。

「ナンシーが好きすぎて。好きって思うのを我慢できない」

背骨に沿って手を下に滑らせる。ぶかぶかのシャツの裾が指先に触り、そこから手を差し入れると、ナンシーは私の胸を押し戻そうとして慌てた。

「待って、やめて」
「ちょっとだけ。ぎゅってするだけだから。ね」

もちろんナンシーは、私が言う“ちょっと”の信用ならなさをよく知っている。薄暗がりの表情は警戒指数最大のまま少しも緩まない。
それでも、私のかわいい恋人は間もなく抵抗を諦めて静かに目を伏せた。
ややあってためらいがちな腕が背中に回され、そっと張り付いてきた。服の上からわずかに圧力を感じる程度の強さで、ナンシーは私の抱擁に応えてくれることにしたらしい。
ふいに睡魔がおとずれる。多分、今晩はもうナンシーの寝顔を見つめて過ごすことはないだろう。
快く重たくなってきたまぶたを閉じ、すぐそばに寄り添う何より大切な存在を香りと気配と体温で感じながら、私は二度目の“おやすみ”に代わる声が聞きたくて問いかけた。

「さっき」
「なに?」
「怖い夢見てた?」
「どうかな。忘れた。……でももう見ないって気がする」

いつしか私たちの呼吸はぴたりと重なり合い、胸は同じリズムで波打っていた。

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    エルム街の悪夢ナンシー
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