その日、わたしの心臓は食べられた。

午前の空は信じられないほどに青く、深く、雲のひとつさえ浮かんでいなかった。
……いや。たった今、ごうごうとうなる旅客機が描いた白線を除いては。
風はほんのりと暖かくて、樹木の青々とした枝葉や背の高い草が揺れるたびにしゃらしゃらと心地好い音が広がった。
わたしはしなやかに伸びた芦やスギナの絨毯の上に寝転んで、長く尾を引く飛行機雲が端の方から薄くなっていくのを眺めていた。

このテキサスの片田舎にも、そろそろ夏がやってくる。ひりつくような夏の一歩手前が一番いい季節だ……つまり、こうして手足を広げて日光浴をするには。
そのうちわたしはまっさらな空を見上げるのにも飽きて瞼を閉じた。
薄明るい闇のなかで耳をそばだてる。決して指先ひとつ動かしてはいけない。聞くのは鳥の声と羽ばたきだけだ。
木の梢から飛び立つ鳥の姿を想像してみる。それから透き通った気流が羽毛を撫でる感触を想像する。上空から望む景色を想像する。地平線の果てまで続くまっすぐな道沿いに遠く、遠く、もっと遠くへ飛ぶ自分を想像する……。

ふいに風向きが変わったように感じて、わたしはしばしの空中散歩から戻った。
するとどうだろう。事もあろうに、見たこともない大男がのしかかるようにこちらを見下ろしているではないか。
喉元までせりあがった悲鳴をなんとか飲み込み慌てて上半身を起こすと、なぜか男の方も驚いたように後ずさった。
先程はよくわからなかったが、身の丈二メートルはありそうなその人は黒い革のような素材でできたマスクで目から下を隠していた。ただでさえ逆光が邪魔しているのに、余計に表情が読みづらい。
わたしから数歩離れた場所に立つ彼はまっすぐにわたしの目を見ようとはせず、俯きがちの視線だけをこちらに向かってちらちらと走らせた。
どっしりとした体つきは堂々たる威圧感に満ちていて、けれど太い指だけは恥ずかしがり屋の子供のように落ち着きのない開閉を繰り返している。はじめはなにか言おうとしているのかと思ったが、男に口を開く気配はない。

「……行き倒れかなんかだと思った?」

仕方なくわたしの方から尋ねると、マスクの男は迷うように頭を動かした。まるで、知らない人に話し掛けられて困っている内気な少年のように。

「ご覧の通り、違うんだけどね。ちょっと、なんて言うか……ぼーっとしてただけ」

そう言って立ち上がると気持ち程度に顔が近づいたものの、それでもわたしはほとんど真上を見上げなければならなかった。
少し離れればちょうどよくなるだろうかと後ずさると、男のごつい靴が一歩踏み出し草を折る。
ではもう一歩と後ろに下がってもやっぱり大きな足がついてくるから、二人の距離は縮まりも広がりもしない。

「これじゃ首が疲れる」

逆にこちらから近づいてみると、今度は彼の方が身を引いた。これってなんだか……そう、なんだかひどく不格好なダンスみたいじゃないかとわたしが笑い出すと、男は不思議そうにまばたきをして、それからお腹のあたりで結んだエプロンの紐を指でいじった。

「残念だけど踊るのは苦手で。どこか行く途中?」

わたしの問いにようやく本来の用事を思い出したのだろう、マスクの男は慌てたように背後を振り返った。あの方角にあるものといえば……精肉所。なるほど、通りでやけに大きなエプロンだと思った。

「そっか。それじゃまた明日ね!」

高鳴る心音に任せてそう告げると男は驚いたように目を見開いて、それからたしかに力強く頷いた。


あれからあっという間に月日が流れた。
わたしは相変わらず夏の少し前の季節が好きで、暖かな草の上で過ごすのも好きだった。
ただひとつ変化を挙げるとすれば、あの日の不思議な大男——トーマス・ヒューイットが隣で胡座をかいていることだろうか。
もうトーマスは精肉所には行かない。革のマスクを着けた彼にしても相変わらず内気で、大人しくて、そして一度として言葉を発することはなかった。
変わることがあれば、変わらない方がいいことだってある。

「いい天気だね」

トーマスはいつだってわたしの言葉をじっと聞いていて、ほんの些細な呟きだって静かに受け止めてくれる。
透明の容器に入った水を一口あおって続けた。

「ずっと春だったらいいのに。暑いのは嫌い。寒いのも苦手だけど」

知っている、と言うように頷くトーマスにペットボトルを渡すと、彼も同じように水を流し込んだ。
……あ、これって。

「間接キスだ」

驚いたのは、トーマスがその一言に反応してペットボトルを取り落としそうになったことだった。
まさかこんな小さな声すら相手に届くだなんて思ってもみなかったわたしは、燃えるように熱くなった耳を隠すことも忘れ、酸素不足の金魚のように唇を開閉させることしかできなかった。
こぼれた雫で濡れた手にはおかまいなしに、トーマスは容器の蓋をきゅっと閉めた。二度と開かないんじゃないかと思うくらい、強く。

「こっ、こんなことまで聞いててくれなくていい、です、よ?」

きっとわたしの顔は面白いくらいに赤くなっている。
恥ずかしくて死にそう。そう笑いながら仰向けに寝転ぶわたしに倣い、トーマスも新緑の絨毯の上に身体をあずけた。黒髪の頭をわたしの胸に乗せる。
これって男女逆じゃない? と思わないでもないけれど、幸せなのでよしとしようじゃないか。

「ねえトーマス、おもしろい遊びを教えてあげる。目を閉じて」

小鳥のさえずりに耳を澄ませて、空を飛ぶ……。
ちょうど一年前の今日、晴れ渡る空の下でわたしの心臓は食べられた。
あの日の空に似た青色ごと、どうかこの鼓動を飲み込んで、飲み込んで。

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