almost

「ありがとう」

目の前の人間から発せられた言葉の意味が飲み込めず、マイケル・マイヤーズは首をかしげた。

「ありがとう」

コンクリートの地面に尻をついた若い女が同じ言葉を繰り返す。心から安堵したその声は震えていて、今にも泣き出しそうにも、笑い出しそうにも聞こえた。
彼女——ノエルはつい今しがたマイケルが刺し殺した男に襲われそうになっていたところだった。
そんな事情など知る由もない殺人鬼は、続いて殺そうと思っていた獲物に礼を言われたことですっかり思考が停止してしまっている。
さて、どうすべきか。
だが彼がアクションを起こすよりも、いつの間にか立ち上がった女が言葉を投げる方が早かった。

「あの、それ大丈夫?」

殺した男に抵抗された際に傷を負った手の甲を指差しながら、今度はノエルが首をかしげている。渾身の力で引っかかれた手からは赤い血がしたたっていた。
だが正直なところ、マイケルにとってこんなものは怪我のうちにも入らなかった。彼はじっと女を見つめ返したまま、指先一つ動かさない。
彼が街灯を背にしているためにノエルの方からマスクの下の瞳は窺えなかったが、もしも見えていたとしたら、殺人鬼に芽生えたわずかな——ほんのわずかな戸惑いを感じ取れたかもしれない。

そのとき、曲がり角の向こうから数人の話し声が近づいてくるのが聞こえて、ノエルがハッとしたように顔を上げた。
彼女は瞬間的に気付いた。ここにいるのは返り血を浴びた自分と、死体と、それから大きな包丁を持った——

「マイケルさん!」

彼女の行動は早かった。迷うことなく殺人鬼の腕を掴むと、鮮血の水たまりから一目散に逃げ出した。
走るということを知らないマイケルの足が遅いせいで、ノエルはありったけの体力を振り絞らなければならなかったが、なんとか他人に見咎められる前に逃げおおせることができたようだ。はたして、二人が建物の陰に隠れた数秒後、女性の甲高い悲鳴が夜道にとどろいた。

「ギリギリだった……よかった……」

遠くで聞こえる動転しきった叫び声をBGMに、ノエルがそっと呟く。今頃になって震えに襲われた彼女は自分の体を掻き抱くように身を縮めた。
男の方はといえば、まるでいつもと変わらない無感動な様子であるものの……内心は少しばかり違っていた。

——マイケルさん!

彼女は確かにそう呼んだ。この女は自分の正体を知っていて、それでも手を引いた。一緒に逃げた。
何故かと考えたところで答えは見つからない。他人の心のうちを探り出すすべなど殺人鬼は知らず、ただ無表情なマスクの奥から女を観察するしかなかった。やがてその視線に気づいたノエルが顔を上げた。

「大丈夫?……あはは、そりゃそうですよね、大丈夫じゃないのは私だな」

それから大きく、でもできるだけ静かに深呼吸をする。何度か繰り返すと、彼女の動揺はいくらか落ち着いていた。
バッグのベルトを掴む手ももう震えてはいない。彼女は空いたもう片方の手のひらを自分の服で拭ってから、マイケルの負傷していない手を握り、急ぎ足で狭い裏道を歩きはじめた。
覚悟を決めたかのような視線は進行方向に向かってまっすぐ注がれている。街灯のない、暗い、暗い闇の先をじっと見据えて揺らがない。

「助けてもらったし、お礼に怪我の手当くらいはさせてください。あと、もしよかったら客室くらいなら貸せますから」

黙ってうなずく殺人鬼はぎらぎらと輝く包丁を握ったままだったが、とうとうそれを振り下ろすことはできず、暗い夜道を知らない女と、そして知らない感情と共に歩き続けた。

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