とりあえず遅刻

今朝は珍しくすっきり目が覚めた。
気温は低いが太陽が輝いているためだろうか、妙に快調な気分で、いつものようにベッドで無為な時間を過ごすこともなかったし体も軽い。
身支度と朝食の準備をてきぱきとこなしながら、ニーナは今日こそは悠々と歩いて教室に入れるかもしれないと思った。
少なくとも、四十分前までは本気でそう思っていた。

そう、本来なら今ごろは自宅と学校のちょうど中間地点にある坂道を下っているべきで、こんな風にリビングのソファに沈んでいていいはずはないのだ。
背後から自分を抱きすくめる両腕に視線を落とし、ニーナは顔をしかめた——嫌悪や不快からではなく、ただ心底困り果てて。
自転車通学最大のウィークポイントである寒風に負けぬように厚手の衣服をしっかり着込んでいるせいで、こうしていると暑くて仕方がなかった。そのうえマフラーを巻いてコートまで羽織っているのだから尚更だ。

「そろそろ行くね?」
「うん」

窺うように恐る恐る切り出せば、背後からダークマンの声が答える。だが明瞭な返答とは裏腹に腕の力は少しも緩まない。ニーナはなんとか身をよじって後ろを振り向こうとしたが、あまりに強固な拘束のせいで真横を見るのがせいぜいだった。
困ったな、と声には出さずに呟く。
二人で暮らしはじめてしばらく経つが、彼がこうなってしまうのは珍しいことではなかった。
感覚を断ち切られ感情の手綱を見失った男が正気を保ち続けるための特効薬としての役割をニーナは何度も果たしてきたし、それ自体はべつに嫌ではない。
いつか本人に向かって言ったように、自分に出来ることなら何でも協力したいと思う。
ただし、それは平日の朝以外ならの話だ。
抱きすくめられた息苦しい体勢のままに腕時計をかかげれば、長針はさっき確認したときより更に傾きを増している。

「勉強は大事だよね」
「ああ」
「学校、行かなきゃだよね」

怒りよりも焦りから声を低くしたニーナが、相手のがっしりした腕に自分の手を重ねてせっつく。
深紅のシャツ越しに感じるたくましい筋肉がそれでも力を緩めようとしないのを見ると、いよいよ弱り切ったような色がその目に浮かんだ。

「あと30秒で出ないと遅刻確定」
「もう少し……あと3分だけ」
「人の話聞いてる? ねえ、今日バイトないからすぐ帰ってくるよ」

返事はまたしても短い「うん」だけだった。ふてくされた少年のような、うつろな響き。
その声を可愛いと、愛しいと思ってしまうのはやっぱりおかしいんだろうか、自分の頬が急にほてるのを感じながら、ニーナはそんなことを思った。

「……私だって一秒も離れたくないけど」

ついつい本音を吐露すれば、わがままな拘束はいっそう強くなった気がした。

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