今日の博士と助手

冥王星の軌道上に浮かぶ『オリガ号』は、医療研究用の名目で連合軍が管理している宇宙船だ。
私はもうずいぶん前からこの巨大な船で暮らし、与えられた任務に従事している。

コンピュータの作動音が低く唸る研究室。なにより大切な任務を遂行すべく、私は一人動き回っていた。
並んだデスクの脇を通り抜け、奥に進むと、無機質な部屋におあつらえ向きの無骨な“檻”が待ち受けている。横幅は壁いっぱい、高さも天井に届きそうなほどある。
檻の壁は透明の分厚い強化プラスチックで出来ており、象だってこれを突破することは出来ないはずだ。もっとも、中に閉じ込められているのは象なんかとは比べものにならないほど強力な生き物なのだが。
電子ロックを外して唯一の出入り口から中に足を踏み入れると、湿った、冷たいにおいが鼻をつく。床は透明の粘液にまみれていて滑りやすい。

「おはよう……メラン? どこにいるの?」

暗がりに向かって投げ掛けた声が、壁に反響して不気味に空気を震わせる。
そして——闇よりも濃密な闇がうごめく気配がした。
薄明かりに姿を現したニューウォーリアーは、たぶん眠っていたのだろう、ぼんやりした様子で私の顔を眺めている。

「調子はどう?」

頭を撫でてやると、ようやく覇気を取り戻して、きゅるきゅる鳴きながら突進してこようとする。
彼女に鎖がついていなければ、私は今頃160キロの下敷きになっていたはずだ。
そう、彼女の筋張った頚には、合成チタンの首輪が巻き付いていた。そこから延びる太編みの鎖は壁に打ち込まれ、彼女の動きを制限している。
首輪の下でまるで誇るようにきらめく銀色のドッグタグに捺された刻印がこの個体の名前を教えてくれる——メラン。
自力では外すことが出来ない鎖から解放されたメランは、一目散に檻の出口向かって駆け出した。研究室から脱走する気がないのはわかっているので、私はのんびりと後を追う。
それにしても、首輪と鎖なんて、さすがに可哀相な気がしてしまう。
以前に暴れたことがあるせいでこんな扱いを受けているのだけど……私が思うに、全面的に博士が悪い。“あの”変態に一日中監視され続けていたら、暴れたくもなって当然だ。

「ねー、博士が悪いよねー」

メランは猫みたいにぐるぐる喉を鳴らして、まるい額を私の額に押し付けて応えてくれた。
ほら、こんなにいい子なのに。


ぷしゅっ、という音をさせてドアが開き、昼食のために離席していたゲディマン博士とカーリンが入ってきた。

「おかえりなさい」

カーリン・ウィリアムソン博士は生物物理化学と基礎心理学が専門の博士で、どことなく神経質で臆病な目をした女性だ。
しかしこのような仕事では、そのような性質は時として何よりも強靭な防弾ベストとなりうる。

「特に上司がコレだと」
「きみ、独り言はもう少しボリュームを慎みたまえ。気になるだろう。……メランを檻から出したのか」

ゲディマン博士が顔をしかめる。

「ずーっとあんな狭い場所で可哀相じゃないですか。床ならあとで掃除しておきます」

しかし、どうやら博士が気にしているのはそんなことではないらしい。

「いまは勤務時間内だ。白衣を着たまえ」
「はーい」
「返事くらいまともに出来ないのか?」
「へい」
「悪化した!」
「二人とも、仕事」

カーリンがふうっとため息を吐いた。キャスター付きの椅子を引いて自分のデスクにつく。
彼女が素早く優雅な手つきでデータの入力を始めるのを見届けてから、博士はまた私の方を向いた。いや、そうではなく、私の隣でキュルキュルと喉を鳴らしている、愛するメランの方を。

「鼻息が荒くて気持ち悪いです、博士。多分それ以上近づいたら両腕噛みちぎられますよ。この間殺されかけて悲鳴上げたの忘れたんですか」
「あれは歓喜の叫びだ」
「博士って人としてのメーターが振り切れてますよね。マイナス方向に」
「なにを——」
「……二人とも、仕事!」
「はい」
「はい」


私のデスクの下で眠っていたメランが起き出して、ごそごそと身じろぎをする頃、データ整理が一段落ついた。
私が椅子の背もたれをきしませ、うんと両腕を伸ばして天井を仰ぐのと同時に、二つ向こうのデスクのカーリンも仕事を終えたようで、優しく声をかけてくれる。

「お疲れ」
「カーリンさんもお疲れ様です」

デスク下から這い出てきたメランの頭を撫でながら応じると、カーリンはその細長い頭部にちらりと視線を走らせたが、すぐに席を立ち上がると部屋の隅のコーヒーメーカーに向かった。ゼノモーフが怖いのだ。

「ああ、カーリン、私にも頼む」

部屋の反対側からゲディマン博士が要求する。続いてこきっと首を鳴らす音と溜め息が聞こえて、私は椅子を回して彼の方を向いた。

「お疲れのようですね」
「ん、ああ。いや、と言うより気掛かりなことがあってな。ニューボーンなんだが……近頃機嫌がよくない」
「それ博士のせいですよ」
「おい、待て、きみはどうしていつも——」
「それで? 誰かが被害に……?」
「話を……まあいい。今のところそういった問題は上がってないが、しかしどうだろう、このままでは危ないかもしれないな」

私は“新生児”のことを思い浮かべた。いまだ誰にも——祖母のエレン・リプリー以外には——心を開かず、もっぱら頭痛のタネと評されている、困った赤ん坊のことを。
赤ん坊はちょっとしたことでぐずりだす。大方、リプリーが構ってくれないとか退屈だからというだけの理由なんだろう。

「あ、博士、近々ニューボーンの夕食になる予定があるなら教えてくださいね。ぜひ見物したいので」
「きみはどんどんいい性格になっていくな!?……どういう訳なんだ、来たばかりの頃は控えめで熱心でいい人材だと思ったのに……」
「私は控えめで熱心ですよ。それにニューウォーリアーたちにも好かれてます。それが一番大事でしょう?」
「そうかもね」

同意してくれたのはカーリンだけだった。優しい彼女は私のデスクにもコーヒーを置いてくれながら、言葉を続ける。

「ねえ、昼間も話してたんだけど」
「なにを?」
「あなたがクビにならないのが不思議だって」
「ああ、それは自分でも時々思います」

確かにたまに、ほんとにたまに言っちゃいけないことをぽろっと零したり、始末書モノのミスを犯したりするし。
だけどそれでも私は今日もここで働いている。それだけ有能ってことです、と言うと、博士に鼻で笑われた。やっぱり一回食われればいいのに。

「ステラはどうしてオリガ号に?」

ふいにカーリンが訊いてきた。
コーヒーに興味津々のメランの「それちょうだい」攻撃に悪戦苦闘中の私は、丸い額を押し下げつつ言葉を選ぶ。自分の過去の全てを打ち明けるには……まだ時期尚早な気がした。

「特別な理由は別に……ゼノモーフに興味があったからでしょうか。“完全生物”とまで呼ばれる生き物ってどんなのだろうって」
「いつも楽しそうに仕事してるものね」
「はい。クイーンのこともニューウォーリアーのことも大好きですから。天職だと思ってます。クイーンのためなら死んでもいいです。むしろ喜んで寄生ホストになります」
「……ステラ……だんだんゲディマンに似てきたわね」
「それはさすがに私に対して失礼だと思います」
「そしてきみの発言はわたしに対して失礼だな」

いや、どのあたりが? 言い返そうと思って口を開いたが、声にすることは叶わなかった。
ちょうどその瞬間、あわてふためいた警備兵がノックもせずに飛び込んできて、青ざめた顔で「エイリアンが脱走しました!」と告げたからだ。
ほんの数秒、部屋は完全なる沈黙に包まれた。まだ少年の面影を残した兵士の荒い呼吸音だけが続いた。

「違う」

最初に声を発したのは私だった。

「エイリアンじゃなくて生物学的にはゼノモーフ」
「更に細かく分類するなら、呼称はニューウォーリアーが正しい」

博士があとを引き取る。

「は、はあ、すみません。えっと、あの、でもそっちのエイリアン……いえ、ニューウォーリアーではなくて、新種の方です」

これを聞いて、思わず溜め息が漏れた。まったく、エイリアンだの新種だの、この男はもう少し彼女らに敬意を払うべきではないだろうか。
そう、あの子のことはニューボーンと呼ぶべき……

「ニューボーン!? 逃げたの!?」
「そういうことはもっと早く言わないか!」
「すっ、すみません!」

憐れな赤毛の新人兵士は、今にも泣き出しそうになっていた。


ニューボーンの脱走情報は、当然のことだがすでに隅々まで行き渡っているようで、船内は大変な騒ぎだった。
だれもかれもが普段より声を張り上げているのは恐怖からか、それとも“ファーザー”の警告アナウンスがうるさいせいか。兵士の一人が、脱出ポッドを準備するべきじゃないのかと気弱なことを叫んでいる。
喧騒の中で、下っ端の下っ端である私に出来ることなど何もないように思えた。
かろうじて考えていたのは、貴重なデータのことでも開発中の新薬のことでもなく、ゼノモーフたちのこと。
彼女たちはこの混乱に常じて何か行動を起こすだろうか? それとももう動き出しただろうか?
彼女たちは人間を傷付け、人間に傷付けられるだろうか——そう考えるといてもたってもいられなくなった。
だが、きびすを返してゼノモーフの隔離エリアに走ろうとしたその矢先、きつく肩を掴まれた。驚いて振り返り、相手の顔を認めた瞬間にこれは面倒なことになったなと心中で舌を打つ。
メイソン・レン——私は彼のことが苦手だ。あまりに冷酷で時々怖くなるから。

「レン博士、あの——」
「8号はどこにいる?」
「あの、存じ上げません」

レン博士は私とは違い、心ではなく口の中で舌を打った。

「ならすぐに探し出して連れて来い。いいか、引きずってでもだ」
「はい。わかりました」
「少しでも渋ったらまた独房へ逆戻りだ。手錠付きでな。それに大事な子供たちもどうなるかわからんぞ。8号にそう伝えろ」

彼はエレン・リプリーのことを言っているのだ。8号。8号。なんて不愉快な響きだろう。
急に目の前の中年男を思いっきり殴りつけたい衝動に駆られた。私がもう少し直情的な人間なら、「はい。すぐに連れてきます」と言う代わりに、本当にそうしていたかもしれない。


私はまだ怒っていたけれど、足音高く歩く危険性を忘れるほどじゃなかった。
クレープ・ソールの靴を履いていたのは幸いだ。この靴底は衝撃の吸収性に優れているから、自分の足音で周囲の音を聞き漏らす気遣いもない。
おかげで人のうめき声が聞こえてくることにもすぐに気がついた。
声は廊下の先のかどを曲がったあたりからするようだ。ごくりと唾を飲む。とりあえず確認だけしてニューボーンだったら全速力で逃げようと決めて、慎重に足を運び——
しかし、正体を確かめるべく恐る恐る覗き込んだ先では、警備兵のヴィンセント・ディステファノがメランに押さえ込まれて慌てているだけだった。
真面目一辺倒でいつでも冷静な彼が必死で床をばんばん叩く様は面白い……が、のんびり見ていて死なれても困るので口笛を吹いてメランの注意を引く。

「なんなんだそいつは!」

さすが兵士と言うべきか、すぐさま息の乱れを治めたディステファノは、ヘルメットを被り直すと鋭い視線で私を睨んだ。

「遊んでくれると思ったようですね」

私がうっかりして檻に戻すのを忘れていたのだ、とは明かさなかった。

「今は遊びの時間じゃないの。先に部屋に帰ってて? ね?」
「言って理解できるのか」
「もちろん。この子たちは頭がいいんですよ。ただ、服従の精神を持ち合わせてないから犬みたいにはいかないってだけ」
「ふん、そりゃ結構な——」

その時、すぐ近くから絹を引き裂くような音が聞こえてきて、彼は即座に銃を構えた。
私たちは顔を見合わせて、そして同時に気づいた。あれはニューボーンの鳴き声だと。

2人と1匹で声のする方向を追いかけていくと、そこではニューボーンが“泣”いていた。
続々と集まってきて遠巻きに銃を向ける兵士たちを完全に無視している彼女は、聞く者の胸をえぐるような悲痛な声を絞り出しながら、狭い廊下や空っぽの部屋の中に祖母の姿を捜している。
その姿のなんと憐れを誘うことだろう。しかし、だからといって迂闊に近づくわけにもいかない。そんなことをしたら物理的に胸をえぐられることになるからだ。
……にも関わらず、うちの変態上司は愛するゼノモーフに引き付けられずにはいられない体をしているらしい。
まるで磁石みたいに、ふらふらとニューボーンに近付いていく。

「ああっ博士ダメですよバカなんですか!?」

これには私も、発砲許可を待つ兵士たちも驚いた。同僚たちの誰かの声が慌ててゲディマンの名を呼ぶが、その声が届く様子はない。

「ああ、美しい……お前は美しい蝶だ」
「博士! なに言って……ダメですってば! もう、このっ……バカ博士っ」

博士に気づいたニューボーンが鋭い牙を剥き出しにして唸る。
人間の頭蓋骨くらいはやすやすと握り潰す、その腕の間合いに彼が入るまであと数歩——

「そんなもの美味しくないわよ」

唐突に割って入ってきた女性の声に、その場の全員がぎくりとした。
エレン・リプリーが一体どこから現れて、いつの間に近づいてきたのか分からないのも、全員同じだった。
彼女は大仰な銃を構えた二ダースの兵士にも怯むことなく前へ進み出ると、「さあ、こっちへ来なさい」とニューボーンを手招いた。
すると、あれほど殺気立っていたはずのニューボーンが、まるで目に見えない鎖で繋がれでもしているようにリプリーに引き寄せられていく。
大きな赤ん坊は祖母の身体をぎゅっと抱きしめると、とろけるような声で甘えた。

「いい子ね」
「ああ……なんて愛らしいんだ。8号、わたしにも抱かせてくれないか」
「頭から食べられてもいいならね」
「いい加減懲りるってことを覚えてください、博士」


今回の騒ぎの発端は、実に単純な場所にあった。制御室の電気系統が一部ショートを起こし、ニューボーンの部屋の電子ロックが外れてしまったんだそうだ。

「だから老朽化した部分を取り替えるよう忠告したんだ。なのに……」

作業着姿の年かさの技師がぶつぶつ呟きながら通り過ぎる。
幸い大した怪我人は出なかったとのことで、上からのお叱りを免れた者は全員がほっと息を吐いた。
レン博士やペレズ将軍も一安心した様子だが、それはおそらく船や高価な機器に被害が及ばなかったことに対する安堵だろう。
渦中の二人はと言えば、新しい部屋の準備が整うのを大人しく待っている。
慌ただしく行き交う人々を眺めるリプリーの顔にふと面白がるような表情が浮かんだ気がして、脳裏に途方もない疑いがよぎった。
もしや私たちは、退屈を持て余した彼女らの人騒がせなかくれんぼに付き合わされたのでは?
彼女が通り過ぎさま私にだけ聞こえるように「いい防災訓練になったんじゃない?」と囁いたとき、疑いは限りなく確信へと近づいた。

「リプリーさん……」

そこへニューウォーリアーの数を確かめにいっていたゲディマン博士とカーリンが戻ってきて、異状はないと告げた。

「こちらもあらかた落ち着きました」
「そうか。ところで先程、きみに馬鹿と呼ばれた気がするんだが」
「私が? そんな訳ないでしょう。聴力検査をなさったらいかがです? 最近働き詰めだったから不調がでてるのかもしれませんよ。さっそく検査の予約をしておきましょう」

有無を言わさずポータブル機器を取り出し、医務室のコンピュータに繋いで検査の予約を入れた。

「いや、しかし——」
「いいんですよ、博士。お仕事のほうは大丈夫です。ああ、ついでに頭から爪先まで徹底的に検査してもらいましょう。だって最後に定期検診受けたのいつです? ダメですよ、もっとご自分のことを考えなくちゃ。あ、レン博士が呼んでますよ。急いで」

博士は納得していない様子だったがそんなの知るものか。これで丸三日は平和が訪れる。
……と、言うよりは。

「これで邪魔されずにメランと遊べます。あ、じゃあ今から女王陛下に会ってきますので。カーリンさん、あとのことをよろしくお願いしますね」
「ステラ……あなた本当にゲディマンに似てきたわね……」

まったくもって失礼な一言を添えて、カーリンは私を見送ってくれた。

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