やくたたずの牙

夜、玄関ベルが鳴った。
いささか乱暴に、急き立てるように二度だけ音を奏でて、それきり何も言わなくなる。
この特徴的な呼び出し方には覚えがあった。はたしてハンゾーが引き戸を開けると、そこにはよく見知った少女がたたずんでいた。

「……追い出された」

それだけ言って鼻をすするニーナはマフラーで顔を半分隠しているが、泣いてはいない。鼻の頭が赤いのは今日の気温が氷点下近いからだ。
ハンゾーが何も言わないうちに上がり込んできた少女は真っ赤に凍えた指で靴を揃えている。重たそうなスクールバッグを持ち直すと、大げさに身震いをした。

「あー寒かったぁ。今日めっちゃ寒くない? 気温どんくらい? 震える」

黒いタイツの足に引っ掛けたスリッパをぺたぺた鳴らしながら廊下を進むニーナはまるで我が家に帰ってきたかのように自然に振る舞っているが、事実ここは彼女のもうひとつの家と言ってよかった。
ここは彼女にとっての安全地帯であり、別荘であり、秘密基地でもある。
ニーナがこんな風に突然押し掛けてくるのはいつも決まって夜中近い。それは彼女の母親が煙草と酒の匂いを引き連れて家に帰ってくる時間と一致する。
ニーナの母親は善人の鑑ではなかった。機嫌が悪いと物に当たり散らして、それでもおさまらないと怒りの矛先を娘に向ける。それは言葉の暴力だけで済むこともあれば、肉体的な暴力に及ぶこともあった。
気丈な背中を見るのは今年に入ってすでに四度目……いや五度目だろうか。まだ二月の半ばだと言うのに、間隔はどんどん狭まっている。
肩にかけてやったウールの上掛けとストーブのきいたリビングの温度は、ニーナの表情をいくらか和らげた。
紅茶の湯気に透かし見る頬はまだ寒そうな色をしてはいるが、そこに平手打ちの痕跡がみられないことに、ハンゾーはいくらかの安堵を覚えた。

「『あんたってなんで生きてんの?』って聞かれて。そんなの考えたことなかったから一瞬思考停止しちゃった。それで『じゃああなたはなんで生きてるの?』って聞き返したら『出てけクズ!』だってさ」

噛み合ってなさすぎでやばいよねと言葉を結んで笑うニーナは、初めて出会った頃に比べて大人になった。
ただ喉を詰まらせて泣きじゃくっていたあの頃の弱さはどこにもない。だがそれがいいことなのか悪いことなのか、ハンゾーにはまるで判断がつかないのだ。
もちろん、あのどうしようもない女を消し去る選択肢もある。けれど独り残された17歳の少女を待ち受ける運命が今よりましなものになるとは限らないではないか。
ふと物思いから帰った彼は、ニーナがまじまじとこちらを見ているのに気がついた。
テーブルを挟んだ向かい側の黒目がちな瞳はあまりに真剣で、まばたきすらせず、こんなときのニーナはまるで優秀なロボットかなにかのように見えてしまう。
嘘もごまかしも通用しそうにないまっすぐな視線で頭の中まで透かし見られているのではないかと、そんな錯覚にすら陥りそうだ。
だが次の瞬間、情報収集ロボットが発した一言はあまりにも予想外すぎた。

「なんか……おっさんになったね、ハンゾー」

正直ショックを受けたが、それを表に出さずに済んで自分の乏しい表情筋に感謝した。
黙ったまま見つめ返す先ではニーナが全く悪気などないようにけろりとした表情を浮かべている。ハンゾーの視線はしばしば他人を震え上がらせる凶器となるが、この少女には全く通用しない。

「昔はもっと……おにーさーん、って感じだったじゃん? あっ、そういえばあの頃は髭無かったよね? だからかな?」

どうやらニーナの記憶力はあまりよくないらしいとハンゾーは思った。
昔々、今と同じようにじっと顔を見つめた挙げ句に自らが言い放った「貫禄ないね。髭でも生やせばいいのに」という一撃は完全にその脳内から抜け落ちているらしいから。
コトンという音。ニーナがジンジャーティーの残り香漂うマグカップをテーブルに置く音だ。早くも冷たくなり始めている磁気の側面には細い指が押し当てられている。

「大丈夫、おっさんになってもハンゾーは男前だから」

一人納得したような表情でそれだけ告げると、急にこの話題への関心を失ったらしいニーナは話題のスイッチをパチンと切り替えた。

「あのね、卒業したら働こうと思って仕事探してるの」

ハンゾーは別段驚かなかった。
ニーナは早くから——それこそ中学生の時分から自立したがっていたし、要領のいい子だからきっとうまくやれるだろう。反対する理由もない。

「それで独り暮らししようかなって」

これにもまたうなずいて応える。
彼はニーナがまだなにか打ち明けたそうにしているのに気づいていて、冬用の作務衣の衿を引っ張って直しつつ相手の言葉の続きを待った。
すると、あんなに意気込んでいたニーナの勢いが急にしぼんでいく。頬にかかる睫毛の影が濃くなったように思えた。
たっぷり間を置いてやっと口を開いたとき、ニーナの顔は幼子のような頼りなげなものになっていた。

「でね? そのときは近くに越してきてもいい?」

その瞬間、ハンゾーは紛れもない憐れみを彼女に対して抱いた。
子供ではないがいまだ大人にもなりきれない不安定な存在を心から気の毒に思い、そしてやり場のない怒りを覚えた。
こんなとき恐らく世間一般の父親ならばきっとそうするように、肩を抱き寄せて安心させてやりたいとさえ願った。
だが、彼が誰かの体に触れることがあるとすればそれは相手を殺す間際だ。そんな手をニーナに触れるのははばかられた。それに、腕を伸ばすにはテーブルが広すぎる。
彼はニーナがまだこちらをうかがっているのを思いだすと、あまり得意ではない微笑みと共にうなずいた(うまく笑みになっていたかどうか、自信はなかったが)。
それでも少なくともニーナの目には悪いようには映らなかったらしく、赤い頬がさらにぱっと赤く染まる。

「ほんと!? よかった!」

彼は時々わからなくなるのだ——この笑顔をろくに守れもしない自分に、一体どれほどの存在意義があるというのだろうかと。

タイトルとURLをコピーしました