明日も精一杯生きるために。

——時間はかかってもいい、必ず成功する。分かってる。肌で感じるんだ。

実験室とは名ばかりの狭苦しい部屋の片隅で、ダークマンはかつてペイトン・ウェストレイクと呼ばれていた頃の自分が口にした言葉を、再び胸のうちで繰り返していた。
彼の目の前には、むかし愛用していたのと同じ型の顕微鏡が置いてある。最近になって人工皮膚の研究を再開したのは誰かのためではない。かといって、自分のためと呼ぶのも少し違う気がした。
きっと、ただ正解を手にしたいという好奇心と、元来の負けず嫌いな性格がそうさせた。もとより人生をかけて打ち込んだ課題を、そう簡単に捨て去れるはずもなかったのだ。

ふうっとひとつ息を吐くと、彼は椅子の背にもたれかかった。
ぎしりと軋む椅子、その音のせいかどうか分からないが、足元で眠っていた猫が目を覚ましてもぞもぞと動きはじめる。
テーブルの下から這い出てきた灰色の猫は飼い主の顔にちらっと目をやったあと、必要以上に大きく口を開けて、少しばかり当てつけがましいあくびを見せつけた。
「おいで」という呼びかけに応じて、猫は優雅な身のこなしで膝に飛び乗ってきた。
もうひとりの飼い主とは違うぎこちない撫で方が気に入らないのか不満げな様子をしているが、残念ながらここにネリーはいない。
二人のあいだに交わされた無数の取り決めの中でももっとも重要なルール、『実験中は部屋に立ち入らない』は今日も堅く守られている。
このルールを提唱したのはダークマンの側だった。もし実験の失敗で癇癪を起こしたとき、そばにネリーがいたら彼女を巻き込んでしまうかもしれない……そんなのは考えるだけでもぞっとする。
猫をもうひと撫でしてやった時、タイミングのいいノックの音が響いて、彼の意識を引きつけた。
ダークマンが答えると、いま考えていた通りの人物がドアから顔を覗かせてこちらに笑顔を向ける。

「いま大丈夫? 良かったらごはんにしない?」
「うん。その前にちょっとだけ、おいで」

半日ぶりに抱いたネリーの体はあたたかく、ふざけて肩口に顔をうずめると、こころよい笑い声が上がった。
くすぐったいよと文句を言いながら抱擁から抜け出そうと身をよじるネリーの手をからめ取り、間近から顔を覗き込めば、向こうもまっすぐな視線を返してくる。
恥ずかしいからいやだ、と言いながらもこうして付き合ってくれる、ネリーのそんなところが彼は好きだった。

「ネリー」
「なーに? 早くごはん行こうよ、冷めちゃう」
「もう少しだけ」
「えー、お腹すいたのに」

とは言うものの、腕力でもしつこさでも相手に敵わないネリーは頬を膨らませつつも従うほかなく、あきらめたように男の肩に顎をのせた。
昨日の夜きちんとアイロンをかけておいたはずのシャツは、もうくたびれて皺だらけになっている。
研究室にほんの一日こもっているだけでどうしてこうなるのか、ネリーにはいくら考えてもわかりそうになかった。
そんな彼女の目が、ふと“あるもの”を見つけて困ったように歪んだ。

「えっと、あのさ」
「もう少しだけ」
「それはわかったんだけど……」

ネリーは注意をうながそうと口を開いたが、目線の先の灰色が動く方が早かった。
理不尽にも膝の上を追い出されたばかりでなく、ネリーを奪われたとあって憤懣やるかたない様子でダークマンを睨み上げていた猫が、とうとう抗議の声と共に彼の背中に飛びついたのである。
短くも間の抜けた悲鳴を上げて、ダークマンはのけぞった。
小さな獣を捕まえようと慌てて背中に腕を回すがひょいひょいと避けられて、猫はあっという間に肩の上。そしてあろうことか彼の見ている前でネリーの鼻先にキスをしたではないか。
ネリーは「あららー。シャツ穴開いたんじゃない?」などと心配しているが、ダークマンにとってそんなのはもはやどうでもいい事だ。
彼は床に下ろした猫の頭を包帯の手でぐりぐりと押し撫でた。

「いいかい、確かに僕は君を愛してる。でもネリーは渡さないぞ」
「ネコ相手に何言ってるの」

まったくもう、と呟いて、ネリーはまだ納得いかない様子のダークマンの膝から飛び降りる。
そしてまだ椅子に座ったままの彼の顔をチラチラ伺ったかと思うと、かがみこんでその眉間と頬と口元に順番に唇を押し当てた。

「これで満足した?」
「うん、すごくね」
「よし、それじゃ……」

彼女は自分の足元の猫を見、彼の顔を見て、これ以上は一分だって待てないからねと腰に手を当ててこう言った。

「エネルギー補給にいきましょっか?」

——明日も精一杯生きるために。

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