疑うことをやめた日

近所の野良猫にすげなくあしらわれ、路肩にしゃがみ込んでうなだれていたら、頭上からクスクス笑う声が振ってきた。
陽は高く、空があまりにも晴れているために、顔を上げても声の主はシルエット程度にしか窺えない。
太陽を背負った女性はこう言った——

「猫と仲良くなりたいなら目を見たらダメだよ。あのね、『にゃーお』って話しかけて、それから目を逸らすの。それで敵意がないってわかってもらえるから。今度やってみて」

そんなロマンチックでもなんでもない出会いが、まさかこれほど長続きするとは。
そう、現在ダークマンは件の女と一つ屋根の下で暮らしている。
行くとこないならしばらく泊まってけばいいよ。そんな軽い一言から始まった同棲生活はかれこれ三ヶ月になるだろうか。
自分自身を捨てた男と天涯孤独の女。奇妙な取り合わせではあるが、二人の間には確かな友情が根付いていた。

ただ、一度だけ、その関係が崩れかけたことがあった。ある時ニーナが彼に告げたのだ。好きだ、と。
ダークマンはひどくうろたえた。今の自分が愛されるなど微塵も想像していなかったし、そんな自分がニーナの気持ちに応えられる訳はないから。
彼女の想いに気づかないまま、自分はこれまでどれほど無神経な振る舞いをしてきただろうと思うと気が滅入りさえした。
今でも思う——自分はあの時立ち去るべきだったのに、どうしてそうしなかったのだろう、と。


「ただいまー……っと、お休み中でしたか」

夜、いつもより少し遅い時間。帰宅したニーナを出迎えてくれたのは、なんとも和やかな光景であった。
ソファーで気持ち良さそうに眠る男が一人と、その腹の上で丸くなっている猫が一匹。どちらもニーナが近づいても目を覚ます気配はない。
包帯の下に慎み深く隠された彼の顔を、ニーナは思い浮かべた。半分が赤黒く焼け爛れ、もう半分は蝋のように白くなったその顔を。
いつだったか彼は自分自身を“邪悪な怪物”と表現した。何かを諦めてしまったかのような、それでいて隠しきれない悔しさを滲ませた声は未だに忘れられない。
思ったものだ——彼の心は二つに分離した顔のように、今でも危なっかしく反発し合っているのではないかと。
その場にかがみ込んだニーナは、ダークマンの手をそっと握ってみた。
かつては化学の発展の一端を担った有能な手は、今は包帯に巻かれて分厚く不器用になってしまった。
軽く曲がった指を伸ばして自分の手の平を重ねてみる。彼の手はニーナのそれよりふたまわりは大きくて、厚みも倍近かった。
相手が急に身じろぎしたので、ニーナは慌てて手を引っ込めた。

「ごめんね、起こした?」
「ん……?」

まだ半分夢心地なのだろう、男は焦点の定まらない目でこちらを見つめている。
二つの瞳は、まるで内面の悲しみがそのまま氷結してしまったかのような淡い青色。

「夢を見てた」

包帯に遮られた低い声で彼は言った。
どんな夢かとニーナが問い返すとダークマンは青い目を伏せて黙り込む。恥ずかしがっているのではなく、悲しみからそうしているようだ。

「嫌な夢?」

ニーナは更に訊いた。

「僕は……その、彼女と一緒にいた。昔の家のカウチで映画を観ていて……」

ぎこちなく発音された“彼女”が誰を指すのかは考えるまでもなかった。ダークマンの、いや、ペイトン・ウェストレイクのかつての恋人ジュリーのことだ。
ニーナはなおも先を促す。だがそれが正しいことなのかどうか、急速にわからなくなりつつあった。

「それで……それで、気がついたら彼女は、……きみになっていた」

一瞬にしてぎこちなく引き攣れた空気が立ちこめて、二人に重く絡み付いた。
悔いるようにぎゅっと拳を握って、男は首を振った。伏せたままの視線はまるでニーナを恐れているかのようだった。

「すまない、ただ僕は——僕は、……いや、いいんだ。ただの夢だ」
「ねえ、それって——」
「違う! ただの夢だ! なんの意味もない!」

突然の大声にうつらうつらしていた猫は驚いて飛び上がり、どこか別の部屋に逃げていってしまった。
立ち上がるダークマンの長身が、しゃがみ込んだまま呆然としているニーナの上に暗い影を投げかける。

「僕に愛される資格なんてないんだ。だからもうやめてくれ……もう……」

絞り出す声は今にも消え入りそうに頼りなく、そこからダムの決壊はあっという間だった。感情の波に呑まれたダークマンは脆くも崩れ落ちた。
床に膝をつく彼はもう二度と立ち上がれないのではないかというほど打ちのめされている。

「僕は……いつか忘れてしまいそうで怖いんだ……ああ、ジュリー!」

初めて目にするダークマンの絶望は、ニーナをひどく狼狽させた。ああ、この人は本当はとてつもなく弱い人なんだ。
忘れたくない、だけどいっそ忘れてしまいたい、二度と触れられない、だけど今でも愛してる。ばらばらになった心はニーナが思うよりずっとずっと深く彼を苛んでいた。

「傷つけたくなかった、ジュリーが傷つくなんて耐えられなかったんだ。ただ彼女に幸せになってほしくて……だけど僕は逃げたんだ。逃げてしまった……」

男の声はひどくかすれていて、まるで壊れかけの機械が軋む音に聞こえた。

「彼女の強さを信じてあげられなかった。彼女に目を向けられなかった。僕が、僕の存在が、彼女を押しつぶしてしまうと思った。
 だけど……ああ、どうして今になって! どうして、今さら気づいたって遅い……遅いのに……」

どんなくだらないおしゃべりにも黙って耳を傾け、そうだねと目を細めて受け入れてくれる人。
そのダークマンの口からとめどなくこぼれ落ちる懺悔の言葉は彼の焼け爛れた皮膚よりも痛々しく、強烈にニーナを悲しませた。
神はどうしてこの人から悲しみの感情を奪わなかったのだろう。痛みを感じないなんて嘘だ。
嘘、嘘、嘘。だってこの人はこんなに苦しんでいる。

「そうだよね、辛いよね。忘れなくていいよ。忘れなくていいから、だから彼女さんのことを守った自分をもっと認めてあげて?
 そうやってずっと自分のこと責めてるあなたを見てると辛いの。本当に辛いの、心配なの」

自分よりずっと大きな身体を包み込むように、ニーナは両腕を広げて彼を抱いた。

「一生懸命愛してたんだもん、忘れる必要なんて絶対ないんだから。だって彼女さんのこと最後まで守ったんじゃない。なのになんでそれが間違いなの?」

ニーナの大粒の涙が自分だけでなく相手の顔や肩まで重たく濡らしていく。
喉を引きつらせ、声を震わせ、このまま全てが終わってしまう予感に胸を引き裂かれそうになりながら、それでも今言わなければならないのだ。

「だからそうやって自分の事否定したりしないでよ、嫌ったりしないで……お願いだから……」

一瞬の決断が、正しいと信じた決断が、痛みとなって一生付きまとう事がある。誰かのための優しさがその誰かを、そして自分自身をも傷つけてしまう事だってある。
見えない棘が骨を抉って、だけどその棘は決して他人には取り除けない。

「言っとくけどね、私は過去も引っくるめて今のあなたが好きなんだから。誰でもないあなたをどうしようもなく好きになったの、しかたないじゃない」

ニーナは涙の膜が張った目をしばたたいた。
はじめて本心の深い深いところまで打ち明けた今、この先どんな結末が待ち受けていても後悔しないだろうという確信が彼女にはあった。

「全部片付けようとしなくてもいいよ。散らかしっぱなしの想いがあっても大丈夫」

ね、と精いっぱい明るく言ってみせる。これだから理系は困るのよ、なんでもかんでもきっちり解析しなくちゃ気が済まないんだから。

「ねえ、私の前からは逃げなかったよね。信じようとしてくれたんだね。ありがとう」
「ニーナ——、ニーナ、ニーナ」

赤いシャツの両腕が恐れるようにのろのろと持ち上がり、つかの間迷う。そしてとうとうダークマンはニーナを抱きしめ返した。
背中をさすり、髪を掻き乱し、濡れた頬を擦り寄せる。
一心に、素直に、ただがむしゃらに。数千年の空白を経てやっと誰かと抱き合えた孤独な怪物のように。


目覚めたニーナが一番最初に気づいたのは、左胸の痛みだった。怖い夢を見たせいで心臓がばくばくと暴れている。
そこに無意識に手をやると、掌が押し返されるほど激しい。
さらに目に映る光景がいつもの寝室じゃなくリビングだということに気づいて、また別の意味で鼓動が早まった。

「あ、れ? なんで……」

まさか夢遊病でも発症したか。
危機感に冷や汗が流れたものの、すでに起き出して猫を撫でているダークマンの姿と、次いでよみがえった記憶とがそれを否定した。
そうか、そうだった、昨日はあのまま泣き疲れて寝てしまって——

「あっ、メイク! メイク落としてない! うわ私今すっごいひどくない!? ごめんちょっと待って顔作ってくるから!」

慌てて立ち上がろうとしたものの寝起きの身体は言うことを聞かず、ニーナはその場にストンと尻餅をついてしまった。
そしてそれがおかしかったのだろうか、包帯姿の男が噴き出した。身体をくの字に折ってプルプルと震えながら笑う姿にニーナだけでなく猫も驚いた様子で、耳を後ろに倒して不審な視線を向けている。

「なに笑ってんの……もー、そんなに変?」
「す、すまない、違うんだ、ただ……おかしくて」
「ぜんぜんフォローになってないし」

あまりにも恥ずかしくて、ニーナは抱きかかえた猫の背中に鼻先をうずめてふてくされた。
そんなに笑うことないじゃない。もう二度と目を合わせてやるもんか、そう誓ったけれど、真剣な声で名前を呼ばれた瞬間に決意はあっけなく崩落してしまう。
青い目が包帯の隙間からそっとこちらを窺っている。少しばつの悪そうな、だけど恐怖も絶望も浮かんではいない目。

「もし……好きになったかもしれないって言ったら怒るかな」
「私の告白はあっさりはねつけておいて?」

ニーナは猫の背中越しに非難めいた一瞥をくれ、だが次の瞬間には気が抜けたように笑って首を振った。

「ううん、すごく嬉しい」

伸ばした手に男の手が重なる。大きさも厚みも温度も違う二つの手が、ぎゅっと固く結ばれた。
こんなことで棘が枯れ果てるわけじゃないけれど。何もかもがよくなるわけでもないけれど。
せめて指先を傷つけないように、優しく手を結びあったまま先へ進もうと、そう誓いあうように。

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