綱渡り

よく“バケツをひっくり返したような……”などと形容するが、今の雨はまさにそれだ。
急に機嫌を損ねた空がやり場のない怒りを地面に叩きつけ始めて早十分。土砂降りの雨はそれ自体が牢獄のようだったが、事実、私はこの雨の内側に完全に閉じ込められていた。
駆け込んだ先は閉店中のコーヒーショップの軒下で、そこには先客が数名がいたが、時間が経つにつれ一人また一人と腹をくくって雨の中に飛び出していったり迎えの家族や恋人と一緒に去っていったりで、残すところは私と同じ年頃の女性一人のみとなった。
どうせただの夕立だろうと軽く見ていた雨がおさまる気配はなく、私もやむなく携帯電話を取り出した。
四回のコールののち、カチャリと音がして電話が繋がる。

「あ、レックス?」
『モシモシ? ダレ……』
「すみません間違いました」

……誰だ今の。っていうか何だ今の機械的な声。
思わず通話を切ってしまい、無言に戻った携帯をしばし眺める。だけど発信履歴を呼び出すと、確かに見知った家の番号が表示された。
恐る恐るかけ直すと今度はワンコールで応答があった。

「あの……」
『《あの……》』

受話器の向こう側から、ノイズ混じりの女の声が私の言葉を真似る。

「誰?」
『《誰?》』

ああ、なんかこんなホラー映画があったような気がする。

「……チョッパー?」
『ナンデワカッタノ!?』
「ちょっ、あんたなんで電話出ちゃうの!」

隣で携帯をいじっていた女性に怪訝な視線を向けられ、慌てて声を落とす。

「私じゃなかったらどうするの」
『エ、ダッテ、レックスガ《ちょっと出かけてくるからよろしくね》ッテ……』
「それ大人しく留守番してろってことで電話を取り次げって意味じゃないよ絶対! 誰か来ても出ちゃ駄目だよ!?」
『エー……』

明らかに不満げな気配がこちらまで伝わってくる。帰ったらみっちり話し合いが必要そうだ。

「ああ、いや、あのさ、いま雨すごいじゃん? そんで傘ないし、動けなくなっちゃって。レックスに迎えにきてもらおうと思ったんだけど……いつ頃帰ってくるとかわかる?」

返答は「わからない」だった。
車で出かけたのは間違いないが行き先は不明とのこと、これにはがっくりきたが、もし近くにいるなら途中で拾ってもらえるかもしれない。

「そう、じゃあ——」

レックスの携帯に電話してみるからいいよ、と言いかけたとき、電波の向こうで妙に弾んだ声が恐ろしい決定を下した。

『大丈夫! オレガ迎エニ行ク!』
「へっ、いやそれは駄目……チョッパー? チョッパー聞いてる!?」

気がつくと通話が切られていた。何も喋らない箱を片手に立ち尽くす私を置いて、最後の相客だった女性は迎えの車目指して軒下を飛び出す。
彼女のチョコレート色の靴が水しぶきを上げたとき、私はようやく我に返った。
え、なに、迎えに来るって? あんな目立つ生き物が? どうやって? マジで来るつもりか? マジだろうな、チョッパーだもん。
いろんな意味でどうしよう……。

驚くことに、“どうしよう”に対する答えが出ないうちに、ヤツは着いた。
全身から雨水を滴らせ、水溜まりを跳ね上げるチョッパーがぶんぶんと手を振る。

「エマー!」
「しーっ! 声! 声でかい!」

周囲に人通りはないし、幸い見通しも悪いとはいえ車道を挟んだ向かいのビルは絶賛営業中だ。見つかる危険性を少しでも減らすためにチョッパーを引っ張って店の端まで移動した。

「なんか早くない?」

そもそも私、場所言わなかったと思うんだけど。知らないうちに発信機か何かつけられているのではないかと思わず服をチェックした。

「……で、傘は?」
「ア」
「何しに来た」

なんでこの子はいつもこうなんだろう。しかししょんぼり頭をうなだれる姿を見ると叱る気にもなれない。ぽんぽんと背中を叩いてなぐさめると、チョッパーはあっさり気を取り直したようだった。

「っていうか見つかったらどうするのさ。さすがにフォローしきれないよ」

しかし彼は自信満々に胸を張る。まあ見ていろとばかりに左腕のガントレットを作動させ、いくつかのボタンを押した。
すると、パチパチッという音と共にチョッパーの全身を青い電流が駆け巡る。光学迷彩を作動させたのだ。
ところが、彼の巨体は一向に消える気配がない。斑点模様の浮いた肌や銀色の装甲は依然くっきりとした輪郭を保ったままである。
おかしいな、と首を傾げるチョッパーが同じ入力を繰り返すが、結果は変わらない。どうやら雨に打たれたせいで機能が麻痺しているらしい。

「チョッパー……あんた……」
「アー……」
「あーじゃない。もー……しょうがないな、私走って帰るからチョッパーも別の道で——」

私の提案を遮って、我が侭な異星人が首を振る。

「ヤダ。一緒ニ帰ル!」
「無茶言わないで」


『どなた?』
「あ、レックス? 私。エマ」

うん、我ながら甘い。一分後、あっけなく根負けした私はレックスに電話をかけていた。

『すごい雨ね。もしかしてまだ外?……ああ、もう』

信号に引っ掛かったか、レックスのいらだたしげな声がした。迎えに来てほしくて電話したのだと私が言うと、『ええ、もちろんいいわよ』と二つ返事の快諾が返ってきた。

『ただこの道ちょっと混んでて。少し待っててもらえる? できるだけ急ぐから』
「うん、なんかチョッパーが横にいるけど」
『嘘でしょう!? なにしてるの!?』
「いや違っ、待って私悪くない、全然悪くないから!」
『今どこ!』

場所を告げるや否や「すぐ行くからじっとしてて!」とだけ言い残して、電話は切れた。

「待ってろってさ」
「ソッカー。オレ腹減ッター。エマハ?」
「君はなんでそんな呑気なの?」

雨はまだ止みそうにない。さて、はたしてレックスが来るまで、私たちは無事二人きりでいられるだろうか。
……そう願いたいものだ。

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