続・博士と助手

宇宙船オリガ号の15階、エリアHの第7セクター。その研究室の片隅で昨日までのデータを整理していた私の背中に、ふいに低い声が呼びかけてきた。

「きみ」

今この部屋には私とゲディマン博士の二人しかいないので、声の主は考えるまでもない。
それより私の名前は「きみ」でも「おい」でも「ちょっと」でもないと散々言っているのに。
とはいえこの変わり者の博士が上司である以上、不本意であっても返事をしないわけにはゆかず、私はコンピュータの画面から顔をあげると椅子ごと後ろを向いた。

「はい」
「仕事を代わってもらえるか?」
「ええ、少しならお引き受けできますけど」

普段から人使いは荒いが自分の仕事を他人に押し付けたりしない博士が珍しいことを言うもんだなと不思議に思いつつも頷くと、これまた珍しく感謝の言葉が返ってきた。
しかし言い付けられた仕事は二十分もあれば終わるような単純なもので、わざわざ人にやらせるまでもなさそうだが……。

「なにか急ぎのご予定でも?」

様々な機器でうめつくされた空間を縫うようにしてキャスター付きの椅子を滑らせて、別のデスクに移動しながら問う。

「そうだ。“新生児”の成長具合を確かめにな」

“新生児”とは先日めでたく……と呼べるかどうかは微妙だが、クイーンから誕生した新種のゼノモーフである。
ニューボーンと名付けられた変わり種の新生児に関して私たちが抱える問題は多いが、その中でも一番頭が痛いのは、彼女が自らの祖母にあたるエレン・リプリー以外には決して心を開かないことだった。
産みの親であるクイーンさえ敵対視しているのだから困りものだ。
当然、私たち研究員兼世話係などは問題外も問題外で、不用意に彼女に接近して、その……まあ、可哀相なことになってしまった人もいたりする。

だから件の仕事に前向きなのはこのゲディマン博士くらいなものじゃないだろうか。なにせ彼は世界中のなによりもゼノモーフを愛しているのだから。
ただ、問題はその度合いで……。
例えばこの部屋にも一匹のゼノモーフが隔離飼育されているが、彼女が日に日に衰弱しているのは決して気のせいではないだろう。
それもこれも、博士が文字通り檻の前に張り付いて観察なんかしているせいだ。
毎日毎日はた迷惑な愛の言葉を聞かされていたらそりゃさすがのゼノモーフだって弱るに決まってる。
今も透明の壁の向こうでうんざり顔をしているニューウォーリアーがいつ反乱を起こすか、私は気が気じゃない。
助けを求めているように見える彼女から視線を逸らし、私はなおも博士に尋ねた。

「それでその記録を博士が……?」
「そうだ」
「ダメです」

予想もしていなかったのであろう答えに、博士が目を丸くする。

「は?」
「博士が行ったらニューボーンがストレスで死にます。絶対に死にます。間違いなく死にます」
「たまに失礼だなきみは!」
「日頃の行いを正してもらえればもうちょっと敬意をはらう気になるかも知れませんけどね」

本当にほんのちょっとだけですけど、と口の中で呟く。

「しかし部下の、いいか、部下のきみが何と言おうと観察と記録はわたしの仕事でもあるんだ」
「じゃあ私の仕事はゼノモーフ達を守ることです」

我ながら大人気ない物言い。しかしここで折れるわけにもいかない私は最終手段として博士の背後の檻を指差すとこう言った。

「あ、構ってほしいみたいですよ」
「なに!?」
「よかったですねー、じゃあ私これから子供たちにご飯あげてくるんで! そのあとニューボーンの方も見てきますから博士はお気遣いなく、ごゆっくり!」

そうして、哀れな犠牲者に内心土下座の勢いで謝りながらも私は猛スピードで研究室を辞したのだった。


「みんなおはよう、ご飯だよ」

仕切のない広い一室に集められた成体のニューウォーリアーたちは、おそらく扉を開ける前から私の気配を察知していたのだろう、そのほとんどがお行儀よく座ってこちらを向いていた。
こうやって大人しくしていると、ゼノモーフもちょっと奇抜な犬くらいにしか見えない。可愛いと思うのに、この仕事を嫌がる人が多いのが不思議だ。
と、そんなことを考えていたせいか、私はいつもの手順を守ることを忘れてしまった。
それに気づいたのは食事を載せたカートをフロアの中心まで押し進めたときだ。
早く早くと騒ぐ大型犬たちに配膳しながらふと振り返ると、なんと扉が開きっぱなしになっているではないか。
あっ、と思ったがもう遅い。私の脇をすり抜けた一匹のニューウォーリアーが逃げ出してしまったのだ。

「どこ行く……すみませーん一匹逃げましたー! 誰か捕まえて!」

慌てて追い掛けたものの、きょうだい達の中で一番すばしっこい彼女の背中はあっという間に遠ざかり、やがてその足音さえも聞こえなくなってしまった。
これはちょっとまずいかもしれない。
逃げ出したのはとりわけ人懐っこく遊び好きな個体なのだが、困ったことにあの子は好奇心が強いのだ。
少し前に別の研究員がやはりうっかりミスで逃がしてしまったときには嬉々としてあちこちの部屋を探索した末に備品を荒らし回り、いくつかの機械類をショートまでさせてくれた。
その辺を走り回って人間を脅かすだけならいざ知らず、器物破損となると私まで責任を問われかねない。

「ちょっともう勘弁して……。今は鬼ごっこしないよ! 帰っておいで」

最初のうちこそ点々と残された体液から逃げた方向の検討がつけられたものの、その道標もある地点でふつりと途切れてしまった。よほど早いスピードで走っているのだろうか?
とにかくなんとかして見つけないと、とこちらも人間なりに急ぐ。そして通路の角を曲がろうとして——突然飛び出してきた人影をかわすことが出来ずに、私は狭い通路に尻餅をついてしまった。

「すみません!」

警備兵の誰かが脱走犯を捕まえてくれたか、それとも本人が今は遊びの時間じゃないことを思い出して戻ってきたのか。
ほっとして顔をあげた私は、しかしその場にへたり込んだまま硬直することになる。
私を見下ろしているのは兵隊でも同僚でもニューウォーリアーでもなく、無表情な瞳をした“新生児”——ニューボーンだったのだ。
乏しい明かりに浮かび上がる彼女は思わず怯むほどに巨大で、てらてらと濡れ光る乳白色の外皮が妙に生々しく、恐ろしく思えた。
彼女の存在感に完全に気圧された私は先程と同じ言葉を心のうちで繰り返した。それでいて先程よりも切実に、「これはまずい」と。
エレン・リプリー以外の生き物はもれなく敵か食料だと見なしている彼女は、地に届かんばかりに長く、そして人間の頭部くらいはやすやすと握り潰せる力を備えた腕をゆっくりと持ち上げた。
ニューボーンの巨大な影が覆いかぶさってくる。叫ぶことも立ち上がることも出来ない私はただきつく目を閉じた。

「やめなさい!」

鋭い声が響き渡ったのは、本当にぎりぎりのタイミングだった。
なにせ、鋭い爪の生えた手は髪をかすめる距離まで近づいていたのだから。もう少しで死ぬところだったのだと思い知り、今更ながらに震えが襲う。

「り、リプリーさん……」
「ずいぶん楽しそうね。で、そんな場所に座って一体何をしてるの?」

まるでヒーローのようなエレン・リプリーは呆れているのか怒っているのか判然としない表情を浮かべている。
彼女の背後では脱走犯が頭と尻尾をうなだれており、私と目が合うなり、ばつが悪そうな顔をした。
そしてニューボーンはと言えば……ありがたいことに完全に私への興味を失っている。彼女は幼い子供そのものの無邪気さで愛する“ママ”の元へ駆け寄ると、その頭に鼻先を擦り寄せた。
入れ違いにこちらに駆け寄ってきて、同じように私に擦り寄って機嫌をとろうとしているニューウォーリアーに苦笑いで応じつつ、私はようやく立ち上がると白衣の埃をはらった。まったく危ないところだった。

「本当にありがとうございました」

命の恩人にどう礼をつくせばいいのかと恐縮しきりの私に対して、リプリーは抑揚の無い声でただ一言「ええ」と答えた。
他人からの感謝に慣れていない者の態度。彼女の境遇を思えばそれも当然だろう。

「それでこの子を——」と、新生児を恐れて小さくなっているいたずらっ子を指差す。「戻してから女王陛下の様子を見に行こうかと思うんですけど」

せっかくなのでご一緒しませんかと訊くと、リプリーは茶色い瞳を細めた。
だがしばしの逡巡ののち、彼女は「今はやめておくわ」と首を振り、ニューボーンと一緒に廊下を引き返していった。
「私の子によろしく伝えておいて」という、本気なのか冗談なのかよくわからない一言を残して。


特別にしつらえられた言わば『女王の間』の中心で、クイーンはなにやら思案顔をしていた。
しばらくは私の存在にも気づかない様子だったが、「失礼いたします、女王陛下」と声をかけると彼女はゆっくりと頭を巡らせこちらを見た。
憂いを帯びた表情(この職に就いて間もなく知ったが、ゼノモーフにもさまざまな表情があるのだ)。
彼女が消沈するのも無理はない。なぜならニューボーンを巡る問題に一番翻弄されているのがこの女王陛下なのだから。
お腹を痛めて産んだ子には母親と認めてもらえず徹底的に嫌悪され、毎日毎日人間の視線に晒され……ひと時も心休まる瞬間が無いのではないか。
出産後は不安定だった体調ももう心配はいらないようだし、ニューボーンに負わされた怪我も回復した。
日ごとのチェックは終わりにするよう博士に打診してみよう……そんなことを思いながら手元のポータブル機器を使ってクイーンの様子を記録していたときだった。
ふいに我に返ったか、クイーンが不機嫌に唸りはじめたのだ。鞭のような尻尾がぴしゃりと床を打ち、「出ていきなさい」と私に命じる。

「申し訳ありません、女王陛下。あの、でも私がお嫌でしたらゲディマン博士が代理人ということになるかと思いますが……」

すると、明らかに人名の部分に反応してクイーンの優雅な頭がぴくりと動いた。宇宙を統べる女王すら怯ませる変態博士、恐るべし。

「もうすぐ終わりますから」

クイーンはしぶしぶ顔を背けたものの、まだ私の方を気にしているのは明らかだった。
きっと私から“我が子”のにおいを感じるのだろう。この落ち着きのない姿をゲディマン博士が見たら、やれ“わたしの”女王の様子がどうだの体調がどうだのと騒ぎ出すこと請け合いだ。
それにしても、クイーンはニューボーンに対してどんな感情を抱いているのだろう。怒り、悲しみ、落胆、それとも変わらぬ愛情?
他のゼノモーフたちなら知っているに違いない。ゼノモーフは互いにどんなに離れた場所にいても、念じるだけで自分の考えを仲間に伝えることが出来るらしいから。
それはテレパシーのようなものかと尋ねると、ゼノモーフ達の母親であるエレン・リプリーはこう答えた。

——もっと強い『絆』だと。

正直、そのときほど彼女を羨んだことはない。
私もほんの少しでいい、ゼノモーフたちと繋がれたらいいのに。
あの子たちの考えに触れて、同じ気持ちを共有し、絆を確かめ合い、もっと近づけたら……そんなどこかの博士みたいなことを考えてしまう自分が悲しい、だけど紛れも無く本心だ。

「そういえばリプリーさんが女王陛下のことを気にかけていましたよ」

記録とデータの転送が終わった後で何気なく口を開く。
今はおいでになれないみたいですけど、と付け足すと、眼球の無い顔でじとりと睨まれてしまった。

「申し訳ありません、でも私のせいでは……。今はお忙しいみたいですから」

あの人はあの人で難しい立場だから、それもしかたない。特にニューボーンがべったりくっついている状態では、自由行動などままならないのだろう。

「そのうち会いに来てくださいますよ。それでは失礼いたします、女王陛下。それから、今日で定期チェックは終わりにしますね。明日からはもう少しごゆっくりお過ごしいただけますよ」

クイーンの細い指が空気を掴むように開閉している。
もっとずっとクイーンが幼かった頃、腕に抱いてあやしていると、決まって今みたいな仕種で服を掴まれたっけ。

「安心したときの癖、まだ残ってるんですね」

思わず笑ってしまった私が女王陛下にこっぴどく叱られたのは言うまでもない。


「も、戻りました」

研究室の扉をくぐるのを一瞬ためらったのは、あの可哀相なニューウォーリアーが今ごろ瀕死だったらどうしようと不安になったからだ。
果たして、愛するゼノモーフとの蜜月を堪能したらしい博士の機嫌は上々だったが、そのお相手は檻の隅っこに縮こまってげんなりしている。
……ごめん、本当にごめん!
後でおやつあげるからねと『絆』には程遠いテレパシーを送りつつ自分のデスクに戻った私の隣に博士が立つ。

「ご苦労。データはすぐにまとめてくれ。明日の朝、上に提出する」

そう言ってコンピュータを顎で指し示す博士は、次の瞬間鋭くも私の表情に気づいたらしく、「なんだ?」と顔をしかめた。

「すみません、ニューボーンのデータとってくるの忘れてました」
「一体なにをしに行ったんだ、きみは」

ごもっとも。

「ニューウォーリアーにご飯あげて鬼ごっこしてニューボーンに殺されかけたあとリプリーさんとお話して女王陛下と遊んでました」
「なんだその羨ましいフルコースは!?」
「あの、今から——」

今からもう一度行ってきますのでと椅子を立ち上がりかけたが、それよりも博士の行動の方が少しだけ早かった。
先程の私に劣らぬスピードで廊下へ飛び出した彼には追いつけそうもなく、私は遠ざかる白衣の背中を見送りながらこう呟くしかなかった。

「ごめん、ニューボーン……」

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