Metamorphoses

開けっぱなしの医務室の扉をノックする音に呼ばれてビショップが顔を上げると、そこにはニーナが立っていた。
ひっそりと、どこか申し訳無さげに、廊下の青みがかった電灯のせいで全身をくまなく奇妙な色合いに染め上げながら。

「今いい?」
「もちろんだ」

今しがた手入れを終えたばかりの手術用鉗子をステンレスのトレイにそっと置いてから、医療担当のヒューマノイドは客を招き入れた。

「えっと、この間から頭が痛くて……多分風邪だと思うんだけど」

勧めにしたがってビショップの正面の椅子に腰を下ろしたニーナは、参ったように症状を打ち明けた。
いつでも気丈な機械技師は珍しく浮かない顔をしている。ビショップが知る限り、ニーナが他人の付き添いや事務的な用事以外で医務室を訪れるのはこれが初めてだ。

「一応診てみよう。デナム熱が流行ってるから」
「ハドソンが倒れたやつ?」
「ああ。だが心配いらない。新型対応のワクチンがあるからね」

デスクの端に追いやってあった小型端末を引き寄せて、慣れた手つきで操作してカルテを作成する。それから再び患者の方へ体の向きを変えた。

「夜だけ喉が痛んだり、目の痛みは?」
「目は痛い。奥の方が……でも喉は大丈夫」
「ものを飲み込みづらいことはないか? 舌がもつれるような感じは?」
「ない。どっちもないよ、今のところ」

てきぱきとそう答えてから、ニーナはふいに笑った。

「いつもと反対ね。いつもは私がビショップを診る側なのに」

確かにそうだ。二人のあいだに交わされる問診と言えば、もっぱらニーナが尋ねてビショップが答えるのが通例だった。
ビショップはニーナの耳に小型の体温計を押し当てた。すると一瞬にして平熱より少し高い数値が示される。血圧と脈拍の数値も乱れているようだ。

「全身スキャンをとらせてくれ。そこに横になって」

指し示す先には医療ポッドが鎮座している。
やや青みがかった乳白色の卵形で、一見するとコールドスリープ用のベッドに似ているそれの壁面についたボタンにビショップが触れると、シュッという音がして半透明の蓋が開き、ニーナが中に横たわるのを待って自動で閉まった。

「10秒もあれば終わる」

神妙な面持ちのニーナに向かってビショップは優しく言ったが、カプセルの中の表情は少しも和らがない。
患者が安心できるようにとわざわざ睡眠用ポッドに似せてデザインした製作者の心遣いも、そもそもコールドスリープ自体が苦手なニーナにはありがた迷惑でしかないようだ。

「じっとして」

ヒューマノイドのボタンの一押しで全身のスキャンが開始され、ポッドの蓋の裏側に横一文字のレーザー光が点った。
機械がかすかな駆動音を立てた。レーザーがニーナの頭のてっぺんから爪先に向かってゆっくりと下降していく。蓋の曲線に沿ってたわんだ青い線が目の前を通りすぎるとき、ニーナはつい目をつむった。

ビショップの言う通り体内スキャンはきっかり10秒で終わり、ポッドから這い出たニーナはもとの椅子に座り直しながら「どうだった?」と不安げに眉を寄せた。
電子カルテに転送されたデータをビショップの灰色の目がすみずみまでチェックする。やがてヒューマノイドは抑揚のない声で診断を下した。

「ただの風邪のようだ。眼球の痛みは眼精疲労と思われるが……」

無言のうちに心当たりを尋ねるビショップは医師の目をしている。油断のない、真摯で真剣な目だった。

「そういえば最近遅くまで勉強してたから……資格試験がもうすぐで。電気工事士免許の更新もしなきゃだし」
「そうかい」

ニーナがいくつの資格を所持していて、そのうちのいくつが高等技術免許なのか、彼女の技術の恩恵を受ける側のビショップはよく知っている。彼女の技術あってこそ、今日もこの基地はとどこおりなく動いているのだということも。
それでも彼は相手に栄養剤を打つより、こう助言する方を選んだ。

「あまり無理をするとそれこそ体調を崩してしまう」
「大丈夫だって、そんなに無理はしてない」

ビショップは問いかけるような視線を向けた。彼の灰色の瞳にまっすぐ射抜かれて、嘘をつき続けられる人間はそう多くはない。
例に漏れずニーナもすぐに観念して、居心地悪そうに両手の指を組んだ。

「だって、技術があればそれだけたくさんの、それもいろんな種類の仕事を任せてもらえるもの」

常に最新の技量が求められるのは医療も同じでしょ、とばかりに片眉を上げる。

「機械ってどんどん高度化してて……多様化も複雑化もしてる。だからそれを扱うのに今までになかった新しい資格が必要になったり、免許の等級を引き上げなきゃいけなかったりもするし。軍に雇われてるからって絶対安泰とは限らないし、生き残ろうと思ったら、常に最前線に立ってなきゃ」

ニーナは一息にそう述べた。自分の主張が間違っていないことを示そうとしてか、毅然とした口振りを演じているくせに、両肩は叱られた子供のようにすぼまっていた。
しかしビショップが気になったのは患者の肩ではなく赤く染まった頬だった。
始めは熱意溢れる演説の影響かと思ったが、どうやら体温が上がってきたらしい。
反論や同意の代わりに、医師は風邪薬を注射するか頓服か選ぶようにと言った。予想通り「手っとり早く注射で」との所望が返る。
まもなくそれは終わり、注射器を厚手のビニール袋に入れてから蓋付きのゴミ箱に捨てたあと、ビショップは部屋の奥に一つだけ設えられた仮眠用ベッドを指した。

「少し眠っていくといい。ここは静かだからね」

医務室のベッドは長方形の台にマットレスとシーツが敷かれた平凡かつ原始的なもので、睡眠カプセルや医療ポッドと違って閉所恐怖症を刺激するような蓋はついていない。
ニーナはしばらく迷っていたが、やがてこくりとうなずいた。

「わかった。そうする」

しかし、清潔なベッドに横たわったニーナがすぐさま無意識の世界に旅立てたのかと言うと、そうではなかった。
頭は疲れているのに、いつもと違う寝床の感覚のせいか、眠りのシャッターをなかなか下ろすことができない。
何度か寝返りを打ったり深呼吸もしてみたがまるで効果がなく、眠ろうとすればするほどに不安や気がかりが次々に浮かび上がり睡魔をますます遠ざけてしまう。
それでも成果がないと見るや、ニーナはビショップを呼びつけた。
穏やかで理知的な顔立ちをしたヒューマノイドがゆったりとした足取りで近づいてくる。彼の数ある特技のひとつは足音をたてないことだった。

「ビショップ、なにか話してくれない?」

ニーナを見下ろす灰色の瞳に、つかの間、迷うような気配が浮かんだ。

「話?」
「眠れなくて。なんでもいいの……医学の話でも料理の話でも」

病気とは無縁のヒューマノイドに熱に浮かされて弱気になる人間の心理が理解できるのかどうかはわからない。だが理解しているはずだとニーナは信じていた。
ビショップは古ぼけたスツールをベッドのそばに引き寄せると、そこに腰を下ろした。

「なにか訊いてくれれば答えるよ」

仰向けに横たわったニーナは、無地の天井を見上げた。

「じゃあ……最近読んだ本で一番面白かったのは?」

近ごろビショップが空いた時間に読書していることは、本人の口から聞いて知っていた。
ヒューマノイドにとって知識を取り入れるのに一番手っ取り早い方法はインターネット回線を通じたデータのダウンロードか、あるいは電子的な記録メディアからのインストールだが、ビショップはもっぱら自分の目や耳を使うのを好んだ。
首の後ろにある、コネクタを差し込むための接続ポートはもうずっと使われていない。

「美術品についての本を読んだ」

そして、穏やかな声が説明をはじめた。
まるで本に記された一節一節を句読点の位置に至るまで正しく思い出そうとしているかのように、視線を宙にさ迷わせている。

「その絵画や彫刻がいつの時代、どんな場所で、どんな想いを込めて、なんという名の人間によって産み出されたかを解説する書籍だった。このベッドと同じだけの厚みもありそうな本でね」
「それは読みごたえがありそう」

ニーナは微笑み、どの作品が一番印象的だったのかを尋ねようとしたが、聞いたところで自分には理解できっこないだろうと思い直してやめた。
ニーナにとっての芸術とは、完璧な計算のもとに隙間なくぴったりと噛み合わさったパーツとパーツや、小川のように流れるケーブルの束のゆるやかなうねりや、世界のありとあらゆる秩序と混沌が詰まった小さな基板や、動物の全身に血液を送り出す心臓のごとく動力を伝達する歯車群のことだった。
そしてニーナにとっての“一番の”芸術とはヒューマノイドたちのことだった。
製作者の手を離れて成長するという点で、彼らは彫刻や絵画と決定的に違っている。
はじめはあらかじめインプットされた必要最低限の情報しか持たない頭脳は、やがて外部からの刺激によってデータを増やしていく。多くの人間や、出来事や、物や、他のヒューマノイドと出会うことによって。
彼らはあたかも生物のように成長を遂げる。
あるいは彼らは——人が“心”と呼ぶ非科学的な存在を、時間と共にその機械の体に宿すのかもしれない。
機械を支配し、制御し、操ることで文明を築いてきたのが人間でも、ことヒューマノイドに関しては違う。彼らは真の意味で、決して人間の支配下には置かれない。
彼らは人間の創作物だが所有物ではないのだ。ヒューマノイドはいつかヒューマノイドだけの文明を手に入れるだろう。
それは予測ではなく確信に近い。

「なんか、眠くなってきた……」
「さっきの薬の副作用だ。心配ない」
「じゃなくて。ビショップがそばにいてくれると安心するって言いたかったの」
「そうかい」
「うん。ありがとうね」

やっと重たくなってきたまぶたを閉じて、ニーナはぼんやり考えた。
“いつか彼が彼だけの世界を手に入れたら、私はその内側に招いてもらえるだろうか。”

「起きたら……その本、私にも見せてね」
「ああ、いいよ。用意しておこう」

もしもその時が来たら、本当のことを打ち明けてもいいような気がしていた。
こんなにがむしゃらにひた走る本当の理由を。
そうしてビショップの手を取って、自分の世界の内側にそっと招き入れたいと。現実と夢の狭間で想う願いは強かった。

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