ちいさなお姫様

動物の世話というものは力仕事に力仕事、またまた力仕事の連続だ。
毎日毎日繰り返される、広い厩舎の手入れや掃除はもちろんのこと、排泄物の片付け、大量の飲用水の入れ替えに加えて、場合によっては何十キロ単位で運ぶ餌。
春夏秋冬の日々が同じルーティンで成り立っている。世話の相手がライオンでもサバンナモニターでもフクロウでも、またはヴェロキラプトルだとしてもそれは変わらない。

「ようニーナ。またえらいもん運んでるな?」

穏やかな男性の声に呼び止められたのは、午後から使う予定の高圧洗浄機と小型の草刈機を両手にかかえ、アリーナに向かっていたときのことだった。
後ろを振り返ると、大股にこちらに歩み寄ってきたバリーは照りつける日差しに目を細めながら、生まれ故郷のフランス訛りが残る英語でご苦労さんと挨拶をした。
例年より早い真夏日を記録した今日、彼はゆったりとしたポロシャツとデニムというカジュアルな装いで、支給の長袖ジャケットはそのがっしりした腰で風にはためいている。

「誰だ? アドバイザーにこんな仕事まで押し付けたのは」
「実は私。これから暑くなるから体力つけとかなきゃと思って」
「見かけによらないもんだな」

この主任調教師は時々、からかっているのか本気で感心しているのかわからない物言いをする。当人いわく「俺ほど真面目な男はいない」だそうだが、それはちょっと怪しい。
だけど私は、彼のそういうところに好感を抱いていた。

「これでも結構鍛えてるつもりなのに。もっと私を信用してくれても……ほらこの辺とか結構筋肉が」
「けどそれはさすがに重いだろ」
「ううん。これね、15キロもないの。だから全然平気」
「そうじゃなくて……肩だよ、肩」

笑いをこらえた、それでいて呆れたような声で彼は私の肩を——そこでくつろぐチャーリーを控えめに指差した。
バリーにつられて急停止した私の上でチャーリーがバランスをくずす。『フシュ!』と抗議の声が上がり、前足の爪が襟元に食い込んだ。
皮膚を切り裂かれずに済んだのはバリーがすかさずチャーリーを支えてくれたおかげだ。小さな恐竜はしばらくもぞもぞしていたが、やがて落ち着ける体勢を見つけると、ギューギューと喉を鳴らした。びっくりした、気をつけてよねって文句を言うみたいに。
首の後ろにぴったりくっつくチャーリーのお腹はやわらかくて、大きさといい重さといい、これでふわふわの毛皮でもあれば猫と錯覚しそうだった。

「変わったタオル引っ掛けてるなと思ったら……落っことさないか?」
「多分。チャーリーはおとなしいから。デルタみたいに背中クライミングしないし……」
「ブルーはそれ以前の問題だしな」
「本当にそう。抱っこどころか近づくのも無理なの、最近」
「なあ、ところで最近歳のせいか記憶力に自信がないんだよな」
「なんの話?」
「俺の記憶だとこの子らは四姉妹じゃなかったか?」

私の手から高圧洗浄機を取り上げるバリーの口調に、また例のからかいが顔を覗かせる。反撃として大げさに顔をしかめてみせたが、それでも彼に悪びれる様子はなく楽しそうに笑うばかりだ。
私はといえば、“破壊神”の異名を欲しいがままにするエコーの困ったエピソードの数々を思い出して、そしてそんな彼女を肩に乗せたとして起こりうる悲劇を想像したせいで、身震いでもしたいような心境だったけど。

「あの子は口に出すだけで怖いから。今ちょっと想像してみたけど、軽く3回は殺されました」
「そうだな。で、そろそろ“歳”ってところを否定したくなってきたんじゃないか?」
「はいはい、バリーはまだまだお若いのでご心配なく」

バリーがアリーナの裏口を開けてくれたので、先に中に入った。
ラプトルたちの日中の遊び場、兼トレーニング場として使う予定のアリーナは6500万年前の森を模して作られている。箱庭と呼ぶには少しばかり広大な八角形の運動場は完成間近で、いまは頭上に十文字型のキャットウォークを設える工事が進められているところだった。
草木を植えたり剪定したり、地面に落ち葉を敷いたりする作業には私たち調教スタッフも関わっていることもあって、徐々に出来上がっていく空間を見渡すと妙に誇らしい気分が湧き上がった。
このジュラシックワールドに勤めてしばらく経つが、アドバイザーとは名ばかりで、実際の業務は雑用が大半を占めている。
何でもかんでも外注できるわけではないから仕方がないし、そもそも私は部屋にこもってトレーニングの予定表を組み立てたり、他人の指導をするより体を動かしてる方がずっとずっと好きだから、何も不満はない。それに今の生活はノースカロライナ動物園に勤めていた頃の忙しくも楽しい日々を思い出させてくれた。
運んできた洗浄機を下ろし、足元に落ちていた邪魔なコンクリートブロックをどかして、ついでに群れからはぐれて転がっていた土嚢を所定の位置に積み上げ直しながら、バリーは空腹をぼやいている。

「なあニーナ、今日は俺が奢ってやるからな。ほらこの間の約束」
「えー本当? 覚えててくれて嬉しい。じゃあお言葉に甘えようかな!」
「チャーリーも腹減ったろ」

やさしく喉元をくすぐられて、末っ子はいかにも心地よさそうに喉を奏でた。
4姉妹の中でもチャーリーは一番気性が穏やかだ。
あくまでもヴェロキラプトルにしては、という限られた枠組みの中だけでの話ではあるが……。
草食動物であるグリーンイグアナの遺伝子がそうさせるのではないかと私たちは推測している。でも、単に他の三頭から守られて育ったせいかもしれない。

「チャーリーは高い場所に登りたがるよな。やっぱりあれか? イグアナの遺伝子作用と言うか」
「そうかも。本当はオーウェンに登りたいみたいなんだけど。でもブルーがやきもち焼くから我慢してるんだよね?」

だからバリーの肩に移りたがるかもと思ったが、今は太古の森——と、そこに遊びに来ている野鳥たち——を観察するのに忙しくてそれどころではないらしい。

「確かにあの子は強敵だもんな。俺がチャーリーでも怒らせたくない」
「それにオーウェンはリーダーだから……あんまり他の子たちを甘やかすわけにもいかないし。ね?」

こうしてチャーリーに話しかけてると、ついつい言葉が通じていることを期待してしまう。それはこの子が非常におしゃべりで、人の言葉に対して逐一相槌を打ってくれるからだ。
今も私やバリーが何か言うたびに、キュイキュイと言葉を差し挟んでくる。

「そうだチャーリー?」

今度は短くギャッと一声。語尾が少し上がり気味なのが、まるで「何?」と答えてくれてるみたいに聞こえる。
チャーリーの首の後ろを手探りで撫でながら、私は話を続けた。

「ご飯の前にちょっとだけ宿題があるからね、がんばろうね。今日からは新しいメニューだよ」

アリーナのど真ん中を突っ切って、私たちは出来上がったばかりの厩舎に向かっていた。その地味な色合いの建物はラプトルたちが大人になった時のことを考えて広く大きく、そしてできうる限り堅牢に作られている。

「お庭が完成したらもっと広いところで遊べるし、今より楽しいトレーニングもできるようになるよ」
「だとさ。楽しみだなチャーリー。お、どうした? 待ちきれないのか?」

バリーが楽しそうに笑っている。低い、なだめるような声音を使うのは私の肩で急にそわそわと足踏みをはじめたチャーリーを落ち着かせるためだろう。
小さな恐竜がぐっと身を乗り出してきて、頬と耳にざらついた皮膚がこすりつけられる。ふしゅふしゅと二度鼻息を吐き出すのは降ろしてという合図だ。
その場にしゃがんで姿勢を低くする私の肩から飛び降りた末っ子は、そそくさと厩舎の出入り口に向かって駆け出した。
まだおぼつかない足取りの後ろ姿をバリーがすかさず呼び止める。

「こらチャーリー! 勝手にうろついたらダメだろ」

すると幼いチャーリーはドアの前で振り向いて、私とバリーの目を順繰りに見つめた。
せわしない早口の鳴き声にあわせて首を伸び縮みさせながら、私たちが追いつくのを待ってくれている。少なくとも私の目にはそう映った。
きっとこの子もすぐに大きくなって、こんなふうに一生懸命人間を見上げることもなくなるのだろう。

「そうだね、おうちに帰ろうね」

小さな恐竜が小首をかしげる。そのあどけない姿に私とバリーが同時に笑った。そして多分、同時に愛しさを噛み締めた。

「ここがおうちだよ」

すると、まるで私の言葉を理解したかのように、チャーリーは嬉しそうに飛び跳ねた。

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